ヴァーモント州イースト・モントピーリアで演奏するマイク・ラファティー(撮影ブラッド・ハーレイ)
出典 A Guide to the Irish Flute
パート2:演奏を学ぶ
お父様が吹いていたのはどんなフルートですか?(P)
ロホレア Loughreaで手に入れたものです。
ある人がフルートを売っていたのです。
父はそこへ行って、何か別のものを買って支払いをするはずだったのですが、この人がフルートを売りに出していたのです。
父は吹いてみて、どう言って頼んだのか、とにかく契約成立。
最初考えていたものを買わず、あるいは支払いをせず、代わりにこのフルートを買ってしまいました。
何かを買わずにきてしまったのですが、それが何だったかは知りません。
当時こういったフルートはどこから来たのでしょうか?(P)
そうですね。
作っている人はいませんでした。
買うお金を持っている人もいません。
ボタンアコーディオンと同じで、誰も作っていなかったのです。
あなたの最初のフルートはどこで手に入れたものですか?
当時キルデア Kildareの泥炭地で働いていました。そこにフルートを売りたいという人が2人いて、それを買ったのです。いい楽器でした。チューニング・スライドはありませんでしたが、本当にいい楽器で満足していました。ある晩吹いていると1人の男が酔っ払ってやってきて、私がイスの上に置いたフルートの上に座ってしまったのです。フルートはバラバラに壊れ、翌朝は大喧嘩でした。でも、どうしようもありません。フルートは修理できるような状態ではありませんでした。
10シリングも払ったのです。今じゃ10シリングなんて大した金ではないですが、当時は大金でした。いい笛だったのです。吹きやすいフルートでした。
次のフルートは借り物でした。その頃あるバンドで演奏していて、そこのフィドラーがいいフルートを持っていました。私はいつもその人のフルートを借りていましたが、貸し出しはしてくれないのです。それでいつも彼の家に行って、何曲か一緒に吹きました。実は大してうまいフィドラーじゃなかったのですが、当分の間自分のそばにいてもらうしかありませんでした。フルートを買い取るお金は持っていたのですが、彼はどうしても売ってくれませんでした。「売り物じゃないぜ」というのが口癖でした。
たしか、おじが送ってくれた古いフルートもありました。しばらくはそれを吹きました。でもおじは何でもいじり回して、手を加えてしまう人で、マウスピースの穴を大きくしてしまっていたのです。何かせずにはおれない人でした。いつも何かをいじって遊んでいた人でした。そのフルートは、友達のおじさんが亡くなった際にそのおじさんが使っていたフルートを頂くまでしばらく吹いてました。そのフルートはあちこちが割れていて、どうしようもありませんでした。でも少しは自分で手を入れて使いました。
それからしばらくはフルートを吹かない時期が続きました。
タラ・ケイリー・バンド Tulla Ceili Bandにマイク・プレストン Mike Prestonというフルート奏者がいて、ある時、「金属のフルートを吹いたら?」と言ってくれたのです。それで楽器屋に行ってキングという名のフルートを買いました。安物のフルートでしたが当時の私には十分でした。
このフルートは結構長い間吹いていましたが、なかなか大変な笛で苦労しました。
のちに、もう少しいい笛、アームストロングを手に入れました。その頃から目に見えて上達したと思います。
それからある日、ワシントンのグレン・エコー公園にいた時に、バグパイプのジェリー・オサリバン Jerry O’Sullivanが言いました。「あっちで、自作のフルートを売っている人がいる。行って見ようぜ。」その周りには8人の人がいて、1本のフルートを試し吹きしていました。見本だったのです。そのとき私はそれがE♭かBか知りませんでした。そのフルートを自分の手に握ってみて、大いに満足しました。「やあ、これが欲しい。」それで、店主のところに行って、「これ買います。」と言いました。「いや、これは見本なのです。半年待っていただいたら、あなたのフルートをお作りします。」「そんなに我慢できません。」ビリー・マコミスキー Billy McComiskey がいてシェイマス・イーガン Seamus Egan もいました。何とか説得して、800ドルで手を打ってもらいました。それだけの価値はあるのです。売ってくれましたが、気の毒に思ってくれました。
これがそのフルートです。パトリック・オーウェルです!
すごい!
お父様はどんな風に教えてくれたのですか?(M)
父の指を見るのです。父は左利きだったから、見やすくて助かりました。教えるのは上手でした。
一度に少しずつ吹いて、私に同じところを吹かせるのです。そうやって次々と教えてくれました。
もし間違えたら…(M)
父が直してくれました。「いや、そうじゃないよ。」って言って。母からうるさいと言われたわけではないのですが、私は畑へ出て練習しました。外へ出て独りになって練習したかったのです。
近所に年寄りの退職した元警官がいて、ピーラー(Peelerアイルランドの警官)と呼ばれていました。彼は少しホイッスルを吹き、私にも教えてくれました。やっぱり畑でね。
古きよき時代です。
お父様はロールをなさいましたか?
今日(こんにち)我々がするような様々な装飾も?(M)
ええ、ロールは使っていました。でも私にやって見せるときは、ロールはしません。
「先にロールを練習したらダメだ。ロールは後から出来る。」と言って、ただ音符のままにシンプルに吹いたのです。
ロールはお父様から学んだのですか?(M)
ええ、主に父からです。幾つかは別の人から学びました。全部じゃないけれどほとんどは父からです。
『どこで演奏するか』
フルートとホイッスル吹き始めて、演奏はどこでしたのですか?(M)
あちこち出歩く年になるまでは、自分の家で吹きました。よその家のダンスパーティーに招かれたりもしました。いつも一緒に演奏したフィドルの人がいて、ダンスパーティーにも呼ばれて行きました。“Mummer’s Spree” という小さなパーティーがよくあって、そこで演奏したのです。“Mummers” と呼んでいました。年頃になると家から家へと渡り歩いて、小銭を稼ぎました。
ジェティー・ウェラン Jetty Whelanと私は、一緒に演奏していて、小さなファイフを2本持っていました。1組の人が、1人は女の服装をして、もう1人は「道化」になって、台所で踊り、私たちがホーンパイプか何かを演奏したのです。そこで得たお金のことを"Mummer’s Spree"と呼びました。私たちはウィスキーを買い、女性たちが呼ばれてケーキやパンを作りました。その金もそこから出しました。お茶なども買い、一晩飲み明かしたのです。それが"Mummer's Spree"なのです。
一緒にやっていたフィドルの方はどなたですか?(M)
ジャック・ダーヴァン Jack Dervanです。彼はバリナキル・バンドでも演奏していましたが、レコーディングには参加していません。ダンスホールで演奏していました。
その頃、バリナキルにはフルートを吹く人が大勢いて、私は仲間に入れませんでした。腕前は十分だったのですが、私の入る余地がなかったのです。たぶん年下だったから。結局そんなところだったのでしょう。順番が回ってくるのを待たなくてはなりませんでした。でも11マイルはなれたところにキリモアという別のバンドがあって、そこで演奏しました。あっちこっちで声をかけてもらって、ダンスホールで演奏しました。Marqueesとダンスパーティーです。1週間に2回とか、1週間に1回のこともありました。初夏によくMarqueesがあったのを覚えています。
フットボールとかハーリング(ホッケーに似たアイルランドの球技)のクラブが、こういったMarqueesをしていて、そこへ行って演奏するのです。4時間も続きます。結構いい稼ぎになりました。1ポンドか30シリング(1ポンド=20シリング)にもなって、当時としてはかなりいい額でした。21歳か22歳の頃です。
Marqueesって、何ですか?(P)
ドーム(丸屋根)のようなものです。大きなキャンバスの屋根でサーカスのテントのようなもので、床があります。そこでイベントをするのですが、3週間とか、もっと続くこともあります。
ジャズバンドとかケイリーバンドとか色々なバンドがやってきます。でもハーリングクラブがダンスパーティーをする時は他のバンドはやりません。この場合は伝統的アイルランド音楽だけです。
"Button & Bows"なんかもダメでした。ある晩、"Button & Bows"を始めたら、「やめろ、金を払わないぞ。」と言われました。それがアイルランドスポーツ連盟(GAA)の規則なのです。
ハーリングやフットボールのアマチュアスポーツではイングランドとかかわりのあるものはいらないのです。当時はそうでした。今ではもちろん変わっています。あちらでは司祭がショーやダンスホールを経営することもありました。でもMarqueesは違います。ハーリングクラブが運営するのです。
当時キリモア・バンドには他に誰がいましたか?(M)
ジェティー・ウェラン Jetty Whelanは私と同じ頃にいました。それから、私がやめた後にトミー・ウェラン Tommy Whelanが入ってきました。私の後任です。ええ、お父さんのほうです。
パディー・コリンズ Paddy Collinsというアコーディオンの人がいました。この人は何年か前に亡くなりました。パディー・ハヴァティー Paddy Havertyはキリモア・バンドの創始者で、フィドル奏者です。ジョニー・クインJohnny Quinnはアコーディオンをやりました。それから、ペギー・ハヴァティー Peggy Havertyもいました。フィドルです。私たちともよく一緒にしました。ピアノを弾く人はいませんでした。ドラムもいなくて、時々ドラマーを借りてくる必要がありました。ドラマーというのはバンドの中で大事なアシストで、いわばタイムキーパーですから。
バリナキル・ケイリー・バンドを初めて聞いた時のことを覚えていますか?
ええ、始めて聞いたのはレコードが出たときです。最初聞いたのはレコードでした。
練習とかセッションも聞くようになりました。確か10歳か11歳の頃でしたが、はっきり覚えてはいません。全員がいたわけではありませんでした。でもアンナ・ラファティー Anna Raffertyはいました。ピアノです。ケビン・モロニー Kevin Moloneyとアギー・ワイト Aggie Whyteと古参のステファン・マロニー Stephan Moloney、トミー・ウェラン Tommy Whelanもいました。
ところで、トミーはロバの引く荷馬車に乗ってくるのです。ロバはこんな風に(実演する)走ってきます。ロバをおもてにつなぐと、トミーは小さな袋を持って下りてきて、干草小屋に入って、そこの干草を勝手にもらって行きます。それからパット・ラファティーのところへ行くと、「お前のとこの干草を頂戴したぜ!」と言うのです。「いいとも。一曲弾いてくれたら、それで帳消しだ。」というのがパットの返事でした。
このインタビューは「パート3:ゴールウェイからアメリカへ」に続きます。