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ケルトの笛 インタビュー

マイク・ラファティー Mike Rafferty

※ このインタビューは、ホームページ「A Guide to the Irish Flute」より、著作権保有者のBrad Hurley氏の許可を得て日本語翻訳し、公開しています。
 
このインタビューは2002年7月にポール・ウェルズ Paul Wellsとマイク・ケイシー Mike Caseyのふたりによって行われた。

インタビューについて
注:このインタビューは他のものに比べてかなり長いので、幾つかのセクションに分けている。

パート1:家族と故郷
マイクが幼い頃を過ごした東ゴールウェイの村と出会った音楽や音楽家について語っている。

パート2:演奏を学ぶ
マイクの初めてのフルート、どうやって学んだか、どこで演奏したか。

パート3:ゴールウェイからアメリカへ
ニューヨークへの移住、ニューヨークでの音楽の盛衰、アイリッシュ音楽とフルートへの情熱の再燃について語る。

パート4:東ゴールウェイの音楽
東ゴールウェイの音楽の特質、他の地域のスタイルとどう違うのかについて語る。


左枠:インタビュアー=マイク・ケイシー(M)とポール・ウェルズ(P)
右枠:マイク・ラファティー

 

マイク&メアリ・ラファティー(撮影ブラッド・ハーレイ)

出典 A Guide to the Irish Flute

パート3:ゴールウェイからアメリカへ

『移民』

23歳のときにアメリカに移住したのですね。
どうしてですか?(P)

アイルランドには自分の夢をかなえるものが何もなかったのです。みんな金を貯めるためにアメリカに来る、私もそうでした。妹は私よりも先にこちらに来ていました。こちらに1年ほどいて私を呼ぼうとしていたのです。でも、こんなに早く来ることになるとは思いませんでした。
アイルランドに音楽の好きなヤツがいて仲良くしていましたが、その人の兄(or弟)はニューヨークにいて、警察で刑事をしていました。この男がちょっとおかしくなって、妹2人と暮らしていたのですが、妹たちが彼のことを怖がっていました。彼は物を隠すようになったのです。
つまり精神的に…精神的に病気になったのです。それで2人の妹が、夜が恐ろしいので家に来て泊まってくれないかと私に頼んできました。それで3週間ほど妹たちと一緒に暮らして、最終的に彼を精神病院に入れました。こちらに来ている兄弟がこの話を聞いたとき、私の妹に、「もしお兄さんがアメリカに来たいのなら、書類を整えてあげるよ。」と言ってくれました。いい話でした。「お兄さんのために何かしてあげたいんだ。」と言って、実際その通りにしてくれました。彼の名前はジム・マクドナルドで、私が船から降りたとき出迎えてくれました。

アイルランドの小さな村からニューヨークに来ると言うのは大きな変化でしょう。(P)

そのとおりです。何もかも違います。アイルランドではあまり旅行も出来なかったのです。一度だけダブリンへ行ったことがあります。車の中で音楽が鳴っていましたっけ。あの頃は、オンボロ自転車でもあればマシなほうで、バルナキルの教区には車は3台しかなく、みんなで貸し馬車やタクシーのように使っていました。めったに見かけることもなく、ロバや馬に引かせた荷馬車が普通でした。

アイルランドではどういうお仕事をしていたのですか?(M)

個人のお宅で庭師をしていました。花や野菜を作っていました。1年ほどです。それからグランドユニオン(食料品チェーン店)がオープンしてそこの倉庫で働き始めました。補修部門でした。
しばらくトラックの運転手をして、それから補修部門に入ったのです。30歳に近い頃です。

『アメリカでの音楽』

こちらへ来てすぐに音楽に出会ったのですか?

そうでもないのです。実は出会ったのはジャック・コーエン Jack Coenだけでした。ジャックは私よりも先にこちらに来ていて、たまたま出会って一緒にフルートを吹きました。その頃私はそれほど吹いてはいませんでした。私の持っていた古いフルートはひどいものだったのです。シカゴに同郷の人がひとりいて、一度会いに来てくれて一緒に演奏したことがありました。メロディオンを弾く人でした。ニュージャージーのイングルウッドにはメイヨー出身の人がいて、ケイリークラブをやっていました。彼はそこでアコーディオンを弾いていたのです。
もう1人リムリックから来た人がフィドルを弾いていて、私もダンスの伴奏で一緒に演奏しました。ドラマーもいました。イングルウッド・ケイリー・バンドという小さなバンドで、そこで月一回演奏していました。そのバンドが解散すると、私の演奏する場もなくなりました。それからかなりの間、音楽から離れてしまいました。

いつ頃のことですか?(P)

1955年の頃です。その頃解散しました。
それから、1971年だったと思いますが、アギー・ホワイト Aggie Whyte(バリナキルのフィドラー)がご主人といっしょにキャッツキル(ニューヨーク州東部の保養地)にやってきました。
私も行って1週間滞在しました。その時音楽に戻ってみようと思ったのです。でも当時いいフルートを持っていませんでした。よく覚えています。「どうしていいフルートを探さないの?」とアギーが振り向いて言ったのです。「どこかにいいのないかなあ?」「それがわかればいいのだけど…」。でも彼女の演奏を聞くだけでも幸せでした。

何があなたを音楽に引き戻したのですか?(M)

アイルランド音楽家協会(コールタス)だと思います。ジョー・マッデン Joe Maddenがいました。彼は私より10年遅れてこちらに来たのです。ショーン・マクグリン、この人のことは話したことがありますね。彼も同じ頃アメリカに来ました。私がアイルランドを離れた頃、彼らはほんの子供だったのです。まだ演奏はしていませんでした。私が国を離れた頃はやってなかったと思います。ショーン・マクグリンが、―安らかに眠りたまえ―、こう言ったのを覚えています。「アイルランド音楽を忘れてどうするんだよ!」背中を押されたと感じました。

演奏を中断していた間、音楽からまったく離れていたのですか?伝統音楽からは完全に切れていたのですか?(P)

ええ、でも毎年大晦日になるとみんなで我が家に集まってパーティーをしていました。ショーン・マクグリン Sean McGlynn、ジョー・マッデン Joe Madden、他にも色々な人が我が家に集まり、彼らが中心になりました。パディー・レイノルズ Paddy Reynolds、アンディー・マクガン Andy MaGann。ジーン・ケリー Gene Kellyはメロディオンを弾きました。他にもマイク・プレストン Mike Prestonとか、ジャック・コーエン Jack Coenとか。リムリックのパディー・マーフィー Paddy Murphyはいっしょに船を下りた仲でフィドルの名手でした。彼は我が家に何回か来ました。1968年の頃、私が家を買った後のことです。地下室があってそこで踊りました。毎年毎年、たくさんの音楽を楽しんだものでした。

『音楽の再開』

つまり15年ほど音楽から離れた時期があり、その後再び音楽に戻ったと言うことですね。(P)

そうです。もう一度最初からやりなおしました。ジャックは一緒にいる時は本当によく助けてくれました。曲をよく知っていて、「これは知っているかい?あれはどう?」と教えてくれました。こういうことが3、4回あったでしょうか。

"Maid of Mt. Kisco"の話は聞いたことがあるでしょう?キスコで結婚式があったのです。自宅で披露宴をやって、私たちが演奏を依頼されました。ジャックと私は、イスがなかったので階段に座って二人でフルートを吹きました。女の人がウィスキーの盆を持って配ってくれて、2、3杯ひっかけました。いやぁ、楽しかった。忘れられない夜です。ジャックもよく「キスコの夜を覚えているかい?」と聞いたものです。私たちの演奏スタイルはよく似ていました。

アイルランドにいた頃と、アメリカに来てからと、どちらが多く曲を覚えたのですか?(M)

こちらに来てから、と言うよりも退職してから学んだものが多いと思います。自由になる時間が増えましたから。座ってレコードを聞いて、それをテープにとりました。それからもちろんメアリーの存在も大きいです。娘が音楽を始めたのです。私は音楽に戻ってこようとして、ホイッスルで曲を覚えていました。メアリーはまだ小さく、周りを走り回っていました。「パパ、そのホイッスル貸してちょうだい。私も吹けるわ。」「もちろんだとも。」こんな風にして始まりました。

私が"The Wearing of the Green"のはじめのところを教えると、メアリーは一生懸命指を動かして、なんと吹いたのです!スローモーションみたいでしたが、私は彼女に合わせて吹きました。
それからテレサと私は、私が毎晩メアリーに教えるのは無理だろうと思って、娘をマーチン・マルヴィルという先生のところへ連れて行きました。もちろん出来る限りの手助けはしました。
日曜日には私がメアリーを引き受けました。日曜の午後にはバーテンダーとして働いていて、1時間か30分ぐらいしか娘に付き合う時間はありませんでした。

ある日1時間娘の相手をしたところ、娘は階段を下りて母親のところへ行って、「パパったら、1時間もやらせるのよ。」と言ったのです。マーティンは娘のために曲をテープに録音してくれていました。中には私も知らない曲もあって、そういう場合はまず自分で吹けるようになって、娘に吹き方を見せてやりました。彼女はその後1週間かけて練習します。娘にとってもいいことでした。なかなかこうはいかないでしょう。メアリーは先生が2人いたようなものでした。

質ラファティーさんのレコードには、バリナキル・バンドやお父様が演奏なさったような昔の曲が多く含まれていますね。(M)

ええ、主に父が吹いていた曲です。バリナキル・バンド、懐かしいですね。ええ、このバンドの曲も幾つかあります。"The Shaskeen"や"Sandymount"などの古い曲のほとんどを録音したと思います。

こういった曲は覚えていたのですか?それとも覚えなおしたのですか?(M)

1人で座ってぼんやりしていると、心の中によみがえってくるのです。

イリアン・パイプスも演奏しますね。(P)

ええ、15歳になってから始めました。父は左利きでした。それを見ていたので私は上下の手を逆に右手を上にして持ちました。父はよく外を散歩しました。うちにはレディーと言う小さな犬がいて、よく父についていきました。歩いたり、畑をぶらついて、塀のところまで行って、通りまで出て、近所の人の家にいったり。それが日課でした。私がパイプを持ち出したのは15歳のときでした。1回、2回、3回。しばらく吹きました。で、父が帰ってきて、外に立って、たぶん聞いていたのだと思います。母は父が来るのを見て、「片付けて。おとうさんが来るわ。」と言いました。
それで私が急いで片付けると、父は入ってきてすぐに、「何か聞こえたかな?」と言います。「何も聞こえはしないわ。」と母。その時は父はほうっておいてくれて、たぶん1日か2日あとの夕方のことです。父は外にいました。夏でした。よく覚えています。父はどこへも出かけず、出かけた振りをしていたのです。私は用心をせず、注意を怠っていました。いつものように父はご近所さんに会いに行ったのだと思っていたのです。父は戻ってきて、「手を離すなよ。」といいました。
私はパイプで音楽を奏でられるようになっていました。「一体どうして……。」父は驚いて言いました。私はパイプを逆さに構えていたのです。その時以来パイプを吹いています。

このインタビューは「パート4:東ゴールウェイの音楽」に続きます。

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