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日本のケルト音楽

高野 陽子『モルーア~海の歌い手~』

 

公式サイト http://takanoyoko.com/

〈曲目〉
1.Chove en Santiago / サンティア-ゴに雨が降る(スペイン・ガリシア)
2.An mhaighdean mhara / 人魚(アイルランド民謡)
3.Dúlamán / ドゥラマン(アイルランド民謡)
4.月ぬ美しゃ / Tsuki nu kaisha(沖縄民謡)
5.The quiet land of Érin(Irish air)~‘S muladach mi ‘s mi air m’aineo(スコットランド民謡)
6.She moved through the fair(アイルランド民謡)
7.Greenwood side~Ale is dear(スコットランド民謡)
8.いつも何度でも (ジブリ映画「千と千尋の神隠し」)
9.No niño novo do vento / 風の中のヒナの巣(スペイン・ガリシア)
10.恋ぬ花 / Koi nu hana(沖縄民謡)

◆参加ミュージシャン

ゲストにアイルランドからギタリストのショーン・ウィーラン氏、ライアー奏者ジョンビリング氏、フルート&パイプで元ナイトノイズのブライアン・ダニング氏、日本からはボタンアコーディオンの吉田文夫さん、ハープのkumiさん、上原奈未さん、フィドルの笠村温子さん。スペインからはガリシアのトラッド・バンド「A Banda das Crechas」オカリナ奏者の米村俊氏…素晴らしい音楽家さん達にサポート頂きました。レコーディングも大阪、山中湖、スペインでそれぞれのエンジニアさんと。そして心折れそうだった私を励ましてくれた友人達、、本当に心からの感謝を送ります!
 

音楽評論家 大島豊によるレビュー


歌は難しいものです。伝統音楽の歌を伝統の外に生まれ育った者が唄うのは難しい。そして、音楽にとって、歌は根幹です。声は人間にとって最初の楽器であり、最後の楽器です。歌をうたうことから音楽は始まっています。音楽伝統は歌に始まり、歌に終ります。ダンス・チューンにあっても歌は土台に組込まれています。踊ること以上に、歌うことが大事です。そして、その歌はむずかしい。


まず言葉が違います。歌詞の内容に盛り込まれた歴史があります。さらに、唄われてきた来歴、蓄積があります。歌そのものとは直接関わりのないことを山ほど背負っています。中には言語化されていないものもあります。こうしたことを見つけだし、消化することは、伝統の外に立っている人間にはまことにむずかしい。


母語と後から身につけた言語の間には決定的な違いがあります。バイリンガルやトリリンガルとして複数の言語を母語としているケースと、その一つを母語とし、他は第2、第3言語として後から身につけたケースでは、後者が母語以外の言語にどれほど習熟したとしても消せない違いがあるそうです。


伝統音楽は自然言語に似ています。クラシックやロック、ポップス、ジャズなどは数学のような普遍的な言語です。あるいはある目的のために作られた言語、たとえばプログラミングのための言語です。数学もいわばメタ・プログラミングのための言語と言えましょう。


伝統音楽の中でもインストゥルメンタル、とりわけダンス・チューンはこうした人工の言語に近いところがあります。あるいはそういうものとして演奏しても、ネイティヴの演奏に近づくことができます。楽器は身体の外にあって、伝統とのインターフェイスになりえます。声はそうはいきません。それを出している身体はヒト、ホモ・サピエンスという同じ種であるとしても、それをプログラミングしている言語は異なりますし、まったく同一の身体はありません。


では、異なる伝統の歌を人はまったく唄えないのか。


そんなことは無い、という実例の一つがここにあります。このアルバムで高野陽子は様々な言語で唄っています。スペイン語、英語、アイルランド語、琉球方言。それでいて、それぞれの歌のリアリティを見事に伝えています。


歌は何よりも感情を伝えようとします。歌詞を見れば物語であったり、教訓であったり、嘆きであったりします。が、歌の本質はそれらを語ることにはありません。物語や教訓や嘆きを伝えるには各々にふさわしい形態、手法があります。歌が伝えるのは、他の方法では訴えることのできないものです。言葉を使いながら、実際に伝えようとしているのは言葉にはならないもの、言葉では表現できないものです。


感情は本質的に言語になりません。我々はそれに言語的表現を与えようとします。そのために韻文、散文、罵詈雑言、顔文字など、様々な手法が編み出されてきました。言語はついに感情を伝えられないと実感した時に歌が生まれます。


もう一つの要素は歌が伝える感情はいつもどこでも一定の同じものでは無いことです。核となるものはあります。けれども、唄う人、唄われる時と場所、唄われる形によって、その現れ方は異なるものとなりえます。すなわち歌の伝える感情はかなりの幅を持つことが可能です。こうした幅は言語表現でもありますが、歌に比べるとずっと狭い。だからこそ、我々は何百年も前に詠まれた和歌にこめられた感情を感得できる。そう見れば、歌はいわば瞬間のものです。いま、ここで唄われていることに意味がある。


歌が音楽であるのはここのところです。音楽は瞬間の芸です。音は鳴るそばから消えてゆきます。録音というテクノロジーも音楽のこの基本的な性格は変えられません。音楽は持続しないところに祝福があります。音が止むことが無ければ、それは苦痛以外のなにものでもありません。


さて、我々が異なる伝統に惹かれるのは、それが異なっているからです。自分の中に無いものだからです。そして高野陽子は、異なる伝統の異なる感情を、いま、ここで唄っています。


どの歌も、元来属している伝統から一歩離れ、高野陽子の歌として唄われています。そう唄われて初めて、歌にこめられた感情の異質さが伝わってきます。たとえば〈月ぬ美しゃ〉や〈恋ぬ花〉を、沖縄の唄者たちの唄と聞き比べてみれば、そのことは一聴瞭然です。沖縄の伝統は我々にとってはアイルランドやスペインよりも近く、その感情にも共通するところが大きいですから、比べた時、相違するところと共通するところとがわかりやすい。どちらの曲も沖縄の唄者たちによる録音はいくつもあります。


まず〈恋ぬ花〉を聴いてみます。最近の録音では平安隆が《悠》2016 で唄っています。自身の三線を伴奏として、円熟の極みの唄です。自分が生き抜いてきた人生と、沖縄がくぐり抜けてきている歴史の厳しさをともに唄い込め、その向こうになお希望を見ようとする。聴いていると背筋が自然に伸びるとともに、胸の底からじわりと暖まってきます。あるいは《唄綵》2018での金城恵子の唄。何か滔々と流れるものにどこまでも運ばれてゆくようです。


こうした唄と並べて、果たして高野陽子はどう唄うのか。


驚いた、というのが正直なところです。まったく遜色が無い。これはもう沖縄の伝統歌ではありません。高野陽子の歌です。いま、ここに生きる人間の一人としての歌です。上原奈未のハープが場を設定し、パーカッションが唄を引き立てます。そこで真向から、愚直に唄ううたい手。唄に身を捨て、唄が流れでるままに唄います。流れでるまでに唄を取り込んでいます。


〈月ぬ美しゃ〉は八重山の歌で、大島保克、新良幸人をはじめ、大工哲弘や平安隆、ネーネーズも唄っています。三線一本のオーセンティックな歌唱もあれば、平安隆には故ボブ・ブロッツマンとの共演、大島保克にはピアノのジェフリー・キーザーとの共演もあります。ネーネーズはコーラスと言うよりもユニゾン。大工哲弘はギターや石としか聞えないパーカッションをバックに唄ってもいます。どれも味わい深く、何度聴いても色褪せませんが、筆者としては新良幸人が伝統の形にもどって唄っている《月虹》2013 での歌唱が最も深い共感に誘われます。


高野は自身の弾く三線とライアーをバックにしています。コブシはあえて最小限に抑え、声を伸ばします。己れの声の質を活かす唄い方を模索した結果でしょう。三線はシンボリックな使い方。そしてライアーが面白い。ハープとギターを合わせたような響きです。コーラスの最後の繰返しで、それまで上げきらずに唄ってきた「おーほほぉーい」を本来の形に上げきるところ。うたい手の謙虚さが光ります。


スペインはアストゥリアス産の[01]、アイルランド産の[02][03][05][06]、英語圏のビッグ・バラッド〈The Cruel Mother〉の1ヴァージョンである[07]、クラシカルの[09]、いずれも同様に、いま、ここの唄として唄われます。


その点で異色なのは[08]です。伝統歌ではなく、いま、ここのために作られた『千と千尋の神隠し』のテーマです。こうしていま、ここで唄われている伝統歌と並べられると、この歌もまた元は伝統歌であるように聞えてきます。そう聞えてみれば、オリジナル作品といえども、まったくのゼロから作られるわけではないと思い当ります。作曲家は各々の伝統の中で育っています。アイルランドや沖縄のような形ではなくとも、伝統は作用しているはずです。


高野陽子がこうした伝統歌を自分の歌として唄うには、本人の精進とともに、これを支えるミュージシャンたちの貢献も少なくありません。こうした音楽家たちの協力を集められるというところでも、高野の器の大きさが測られます。


例を挙げれば[02]のギター。この歌にはアルタンの決定的なヴァージョンがありますが、このギターはそこでの Mark Kelly の演奏を凌ぎます。高野の歌唱がマレード・ニ・ウィニーのそれに拮抗しているのには、ハーモニクスを効果的に使うこのギターのサポートが大きい。


続く[03]では高野自身も巧みなバゥロンを披露します。この歌にもクラナドやアルタン、さらには Pádraigín Ní Uallacháin の各々に決定的な歌唱がありますが、ここでのヴァージョンはそうした先達の各々の良いとこどりをした上で、本人の原初的なバゥロンが独自の筋を通します。


[06]でも、プリミティヴとも聞える打楽器(クレジットではプログラミング)が使われていて、典型的な「耳タコ」の曲であるこの歌に新鮮な筋を通しています。この歌には無数といっていいヴァージョンがあり、出来もそれこそピンキリですが、高野のヴァージョンはこの打楽器とウードの響きに支えられて、ベストの一つに数えられます。


どういうわけか、英語の歌では、高野はうたい手としての自意識が消しきれずに残る傾向があります。歌詞の意味が「わかって」しまうからでしょうか。この歌はまたうたい手が唄うことに没入していないと、それが如実に現れてしまうという性格を備えています。気をつけていても、あられもなくセンチメンタルになっていってしまいます。アルバムの中で他の歌は良いのに、これだけが唄いきれていない例が少なくありません。高野自身の歌唱は、バックの演奏に救いあげられ、かすかに残る自意識が愛嬌とも言えるものに転換しています。


異なる伝統の歌を唄う人は、そう多くはありませんが現れてきています。元の伝統のうたい手とは違った、我々のいま、ここで唄いなおしてくれている人たちです。アイルランドや北欧の伝統では奈加靖子、河原のりこ、ほりおみわに続いて、高野陽子の録音が出たことを、心の底から言祝ぐものです。


もっとも女性ばかりなのは不思議ではあり、男声の唄も聴きたいものではあります。
 
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