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Shanachie「She Was Under The Tree」

シャナヒーを初めて聴いたのは《TIME BLUE》(2008) でした。もう十年前になる、とあらためて遠い眼になります。今の時代、十年というのはかつての30年ぐらいに相当しましょう。スコットランドやアイルランドの曲やそこに連なるオリジナルを、フィドルと笛とピアノで演奏し、思い切りとセンスの良いパーカッションが引き締めた佳作でした。当時の国産のケルト系の録音では群を抜いたアレンジの巧みさに舌を巻いたものです。そして音楽に対する大胆なアプローチにも感心しました。その代表はラストの〈てぃんさぐぬ花〉で、あえて沖縄の匂いを消し、シャープなパーカッションが拡大するより大きなスケールの中で唄いきってみせた力業は、十年を経ても色褪せません。

5年後の《LJUS》(2013) では変化の大きさに眼を瞠りました。まずピアノが消えて、全面的にハープに交替しています。そして、素材はすべてスカンディナヴィア。ここではまず3人のゲスト・シンガーを迎えての歌に耳を惹かれました。とりわけ歌詞を日本語に置き換えて唄われる2曲は、日本語化の見事さとうたい手の咀嚼消化の徹底に感服しました。全体としてもアレンジはさらに練りこまれています。スキルとセンスともに一段と磨きのかかったパーカッションが、そのアレンジを多彩にいろどります。フィドルも「声」の幅が広がり、楽曲の生まれた場所の空気を感じさせます。本人たちであれ、誰であれ、これを凌ぐ録音を作るのはほとんど不可能とも思えました。

《TIME BLUE》から《LJUS》への変化は《Celtsittolke》(2010) と《Celtsittolke Live》(2012) で少し伺えます。前者ではフィドル、バゥロン、ピアノのトリオによるシンプルな組立てで、アイリッシュを演奏。後者では〈She Moved through the Fair〉が収められていますが、ピアノからハープに交替。

《LJUS》の手応えを本人たちも自覚していたのでしょうか。さらに5年後のこの最新作では、方向を変えています。《TIME BLUE》から《LJUS》への転換に比べれば、一見(一聴?)変化は小さいようにもみえます。

素材は今回もすべて北欧です。スウェーデンやノルウェイ、デンマーク、フィンランドは、各々に音楽伝統の厚い地域で、伝統音楽の現代的展開にも熱心でもあります。アイルランドやスコットランドでもそうですが、音楽のジャンルの間の垣根が低い。とりわけ、フォーク・ミュージックとクラシック、ジャズのミュージシャンたちはおたがい相互交流しています。アバのベニー・アンダーソンは伝統音楽のアコーディオン・プレーヤーとしても知られます。スウェーデンでは1960年代から伝統音楽をジャズに取り入れる試みをしています。1970年代初め以降、ロックの洗礼を受けた若い世代による同時代音楽としての伝統音楽の展開もしてきています。

わが国のミュージシャンたちが、そうした成果に本格的に触れるのは前世紀末、デンマークのハウゴー&ホイロップやスウェーデンのヴェーセンなどを通じてですが、2010年代も後半になって、急速に関心が高まっているようにみえます。京都のドレクスキップと並んで、《LJUS》はそうした動きの先駆けでもありました。

それにしても、このアルバムでの北欧音楽の消化の徹底していることは、他には肩を並べられるものが見当りません。その消化は、精緻を極めたアレンジを施してゆくことで可能になったとも見えますし、またその消化があったればこそ、極限とも思えるアレンジができたとも思えます。あるいは各々が互いにあざないあって、どんどんと深みにはまっていったのかもしれません。

今回は歌はなく、すべて器楽曲。しかし、どの曲も実に「雄弁」です。アレンジの編み込み方は、前作と比べてもほとんど次元を異にすると言えるほどに複雑に緻密になっています。どの楽器が何をやっているのか、うっかりするとわからなくなります。例えば[02]では、ハープからフィドル、ヴィオラ、オルガンへとメインのメロディが受け渡されてゆきます。受取る前も、受け渡した後も各々の楽器はハーモニーに回ったり、裏メロを奏でたり、時にはユニゾンにもなります。どの楽器もメインのメロディを演奏していない時もあります。

こうした手法はチーフテンズのお家芸で、クラシックからの借用ですが、この録音ではチーフテンズのものがごくプリミティヴな試みに聞えてしまうくらい遙かに洗練されています。チーフテンズでは担当している楽器はユニゾンですし、渡してしまえば休みます。こちらでは、各楽器の関係も錯綜していて、簡単には追っていけません。時には眼が眩むほどですが、しかし、全体としては整然として美しい。聴くたびに新鮮な曲が姿を顕わします。クラシックの管弦楽法なら、チーフテンズをモーツァルトとすれば、こちらはリムスキー・コルサコフやラヴェルの域にあります。というよりはジャズのビッグバンドの最先端に近い。マリア・シュナイダーの音楽や、あるいはいっそカマシ・ワシントンのものにも通じましょう。

[02]はパーカッションを外していますが、[03]では多彩なパーカッションがリピートごと、フレーズごとにカラーを変えてゆきます。ここではハーディガーディも加わって、[02]とは対照的なダイナミズムあふれる演奏。

例えていえば、ビザンティンのモザイク画、あるいはモロッコの緻密華麗な紋様を思い起こします。個々の要素をとりだすと、それぞれ勝手なことを勝手にやっているようですが、全体として見ると、鮮明で美しいイメージを生み出します。

細かい役割分担と相互の緻密なやりとりを重ねて複雑精緻なアレンジを編みなし、静謐かつダイナミックな美しさをかもしだす手法は、《LJUS》の〈Marionette Halling〉や〈Sleepers, Awake!〉の後半にすでに顕れています。もっとも編み目はずっと緻密になり、生み出されるイメージの豊饒さも一段と深い。

アレンジだけではありません。スキルの点ではまずフィドル。もともと深い響きが、一種鄙びた味わいを帯びてきました。いなたいといっては失礼になるような威厳があります。[07]の後半のリードのタイム感は絶妙ですし、[06]で、ハープに対してシンプルなリフというよりいくつかの音をドローン的に置いてゆくときの響き。これはハーダンガー・フェレで、また一段と響きが豊かです。そして[10]の後半での無伴奏ソロには、自然と背筋が伸びます。ちなみに[06]ではラストにダブル・ベースが残ってメロディを奏で、鉦がリーンと相槌を打つのが粋。

パーカッションのセンスにはもともと並はずれたものがありましたが、この鉦にも顕われるように、また一皮剥けたようでもあります。時にはまるで的外れな音を一見気まぐれにはさんだりもします。それが一々、はまってゆく時の快感は筆舌に尽くしがたい。随所で入れるビブラフォンやグロッケンシュピール、あるいは[08]でビートを刻む捻ってキリキリリリという音を出すもの(すみません、無知で名前を知りません)など、ユーモアのセンスが全体を明るくします。それもあって、この[08]はユーモラスなことではアルバム随一。ちなみに楽曲の美しさでは[10]が、豪奢な愛らしさにあふれて、頭抜けています。無伴奏フィドルのソロに続く爆発するバンドのスリルには何度聴いても息を呑みます。

ハープは難易度の高いことをやるわけではありません([04]のハーモニクスを交互に入れるのは難しそうだ)が、身体にすっかり馴染んでいます。これに比べてしまうと、《LJUS》の時はまだ初々しさがみえます。ギター的にリズムをつける時のアクセントの付け方はレベルが違います。

サポート陣ではアコーディオンの活躍が目を惹きます。参加している曲では、アンサンブルの一角として、メインの3人とまったく対等にからみ合います。加えて、出番は多くないが、コントラバスがいい味。低域を支えるよりも、全体の膨らみを増します。

全体にテンポの選択がうまい。[08]の後半を除いて、アップテンポといえる曲は無く、ミドルからスローが基調ですが、参加しているミュージシャンはいずれもすぐれたリズム感覚を備え、曲の中でも自在に変化します。アルバムを通して聴いても、気持ちよく曲が流れる。

先にも触れましたが、これはフォーク・ミュージックの範疇ではないでしょう。スウェーデンでいえば、リェナ・ヴィッレマルクとアレ・メッレルが ECM でやった "Nordan" Project の手法とも違います。あそこにはまだジャズの手法を使う意識が働いています。フリーフォートは、各楽器が独立し、いわば自分の存在をぶつけ合います。シャナヒーでは、ミュージシャンの個性は明瞭ながら、たがいに最も気持ちがよくなる形の絡み方を見つけようとします。

このアルバムは1個の「芸術品」と呼ぶべきでしょうが、グリーグ、シベリウスやニールセンのようなクラシックではもちろんありません。伝統音楽を素材とし、あくまでも素材の味を活かし、何かのひな型や枠組みにあてはめるのではなく、素材の潜在性を最大限に引き出し、楽曲そのもの、メロディそのものを可能性いっぱいまで展開しています。やはり言葉の最も広い意味で「ジャズ」と呼んでいいものではないか。あるいはむしろ、これもまたフォーク・ミュージックであり、フォーク・ミュージックの可能性を極限まで拡大している、と言うべきでしょうか。

ここに生まれているものは新しいものです。それも、新しいものを作ろうとして生まれたものではない。楽曲との対話のうちから生まれています。それは聴けばわかります。何かをめざして組み立てていったものではない。対話を繰り返しながら、楽曲の、音楽の向かおうとする方へどこまでも進んでいった。ですから複雑精緻でありながら、どこにもストレスがかかっていません。ごく自然に流れています。聴き手もごく自然に気持ちよくなります。聴くほどに、楽曲の内部へ、音楽の内部へと惹きこまれます。求心的ですが、通常求心的な音楽に付随する窮屈さがまったくありません。緊張と弛緩が同居しています。

シャナヒーのアルバムはいずれも録音が優秀ですが、これも精緻なアレンジとダイナミック・レンジの広いパーカッションをしっかり捉えた録音が見事です。
 
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