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須貝 知世「Thousands of Flowers」

聴いて即気に入り、ずっとそればかり聴いていると、やがて飽きてしまい、ある日ぱたりと聴かなくなる。そういうアルバムはわかっていながら、聴くのをやめられない。というのをラズウェル細木が『ときめきJazzタイム』で書いていました。その反対に、初めはいいのか、悪いのか、よくわからず、しかし気になって繰り返し聴くうちにだんだん良くなってゆき、ついには定期的に舐めるように聴くようになる録音もあります。いわゆるするめ盤です。筆者にとってこれの典型はヴァン・モリソンの《Veedon Fleece》であり、ペンタングルの諸作です。どちらも自力では良さがわからず、それぞれに友人が惚れこんでいるのを知ってあらためて聴きだしました。けれども、自分にとってもかけがえのないものになるまでは、時間がかかりました。

須貝さんのこのソロも、初め聴いたときには、よくわかりませんでした。悪いものであるはずがない、とは感じていました。実際手応えは充分以上でした。ただ、ではどこがどう良いのか、と問われると、さっぱりわかりません。衆に優れたものかどうかもわかりません。

一つにはフルートの演奏の良し悪しの判断が筆者には難しいことがあります。フルートは他の楽器に比べると、巧いのか下手なのか、よくわからないのです。というよりも、みんな、ひどく巧いように聞えます。

須貝さんも巧い。とはいえ巧いのは標準で、それが特徴になるわけではありません。巧い他に何があるのか。何が彼女を多数の優れたフルート吹きから際立たせているのか。それが摑めないのです。

そこでとにかく毎日一度聴きだしました。いろいろなもので聴きます。DAPにイヤフォンを挿し、歩きながら聴く。Poly+Mojo から音友の真空管ハーモナイザー経由でデスクトップのヘッドフォン・アンプにつなぎ、STAX のヘッドフォンで聴く。手持ちのヘッドフォンやイヤフォンをとっかえひっかえしながら聴く。

繰り返し聴き、ときにはサポートの方に耳を向けてもみます。すると、靄がかかってぼんやりしていたものが、だんだん晴れてきました。右側のアニーのギターがだんだんはっきりしてきます。左で梅田さんのハープが何をやっているのかも、少しずつ見えてきます。この録音はサポートの二人の音量が抑えられていて、それはもちろん主役のフルートを際立たせるためでしょうが、それにしても抑制が効きすぎて、時には[07]後半のバンジョーのように、いるのかいないのか、よくわからないものさえあります。確かにバンジョーが鳴っていて、ユニゾンでメロディを弾いているのはわかりますが、それ以上細かいところはどうも聞えません。

須貝さんにはすでに na ba na での録音がありますし、Toyota Ceili Band のメンバーとして録音にも参加しています。とはいえ、後者ではアンサンブルの一員として個別の音はまったく聞えません。前者でも3人の絡みは複雑精妙で、個々の個性よりも、ユニットとしてのサウンドが聞えます。それらには無い、このソロでの特徴は何なのだろう。

一つこれかなと思えてきたのは、低域と高域の往復が頻繁で、その切替えが鮮やかなことです。典型的なのは[06]のジグ。前半の伝統曲でも低い音からぱっと高い音にジャンプするのが快感です。後半の自作曲ではAパートでやはり低域から高域へメロディが駆けあがり、Bパートではずっと高いところで終始します。フルートで高域がこれだけ綺麗に聴けるのは、聴いた覚えがありません。

フルートはどちらかというと音域が低い、少なくともそう聞える楽器です。ホィッスルと比べてみれば、一聴瞭然です。そしてその低域から中域へかけての音をいかに膨らませるかが、演奏者としての快感を決めているように思えます。フルート吹きは高域に音が行かない曲をどうやら好むらしい。

須貝さんは高域を恐れない、と見えるほどに高い音を綺麗に出します。低域から駆け上がって、一瞬高く飛んでまた低く潜るのも得意らしい。

この高域の美しさには、須貝さんのフルートの音色の持つ太さも与っているでしょう。たとえば須貝さんの師匠の豊田耕造氏のフルートのような、シャープな切れ味で、聴く者の中にすいすいと入ってくるのとは、聞え方が異なります。そこにはどっしりした、肝っ玉かあさんと呼びたくなるような、大きな包容力が控えている。土台がしっかりと据えられて揺るがないから、高く飛翔できるのです。

その揺るがない土台は、楽器の技倆によるものも然ることながら、それ以上に人としての器量、人間としての柄から来ているものでしょう。持って生まれたものが、環境により、また自らの精進によって育まれたもので、一朝一夕にできるものではありません。そうなろうと意識して本人が努力した結果とも思われません。

とまれ、須貝さんの持っている器の大きさが、フルートを吹くと、その音の太さとして現れるのです。音には人が出るのです。ハイトーンは普通、線が細くなるものです。
須貝さんのハイトーンも、中低域に比べれば細くはなりますが、それでも芯はしっかりと太い。面白いことに、音が太いとともに柔かくもある。太くて柔かくて澄んだハイトーンというのは、他の楽器でもなかなかありません。

そしてサポートの二人も、そこを把握し、押し出すような演奏をしています。ギターとピアノは終始、低域です。ビートを刻んで煽ることは一切しません。むしろ音を置きながら、後からついてゆく。これはマーティン・ヘイズに対するデニス・カヒルのギターの弾き方とも違います。カヒルはヘイズの向かう先を読んで、布石を打っていくようです。ここでの二人は後ろから支えて押し出します。ハープは右手でユニゾンをしますが、左手のベースがよく効いています。そして、左手の方がわずかながら音量が大きく聞えます。

アイリッシュ・フルートの伝統的範疇からはみ出ているように見えるのは選曲にもよるでしょう。例えば[03]のホーンパイプからストラスペイにつなぐところ。最近ではスコットランドでも優れたフルート奏者が出ていますし、アイルランド出身でも多彩な曲をとりあげる Nuala Kennedy もいますが、フルートでストラスペイを演奏するのは、あまり聴いたことがありません。アイルランド人はまずやりません。演るとしても、楽曲はアイルランド版で、スコットランドのものとはノリが異なります。まともなストラスペイをフルートで演るのはまず息継ぎが難しそうです。スコッチ・スナップと呼ばれる独特のビートをフルートで出すのは至難の技でしょう。須貝さんもそこは明瞭でない。とはいえ、ホーンパイプからストラスペイをはさんでリールという組合せは、フルートという条件を引いても新鮮です。

ご母堂に捧げた〈母の子守唄〉も、シンプルで美しい。これをマイケル・ルーニィの曲と組み合わせたセンスは見事です。このルーニィの曲も原曲はハープのためのもので、必ずしもフルート向きとはいえないでしょう。

初め、よくわからなかったのは、これがするすると聴けてしまうからでもありました。ことさらに難易度の高くない、少し精進すれば、これくらいは誰でも吹けるだろうと思われる曲を、技をひけらかすでもなく、思い入れたっぷりにでもなく、ごく普通のことをごく普通にやりました、という態度で提示してみせます。それにみごとに騙されたのでした。

そうでない、というわけではおそらくないでしょう。須貝さんとしては、特別なことを気合いを入れてやりましたというわけでは、おそらくない。ふだんからこういう曲をこういう風に演奏しているのでしょう。そうでなければ、ここまで一見無造作に、何の抵抗もなくさらりと聴けてしまえるようには演奏できないはず。

とはいうものの、こうして繰り返し聴き込んでゆくと、かなり掟破りなことに挑戦し、難易度C以上の技を連発し、いわばフルートの楽器としての限界を押し広げようとしているのではないかと思われてきます。あるいは、限界を広げることを意図するのではなく、面白い、楽しいと感じることをやっていると、結果として限界を拡大している。

難しいことを気合いも入れずさらりとやってしまうのは、やはりたいへんなことであります。もう一度しかし、難しいことをやることが音楽家の目的なのでもおそらくありますまい。いかに気持ちよくフルートを吹くか。まずそれが第一であり、第二でしょう。そして三、四はなくて、ずっと離れて、聴く人にも気持ちよい想いを抱いてもらうことが来ましょう。難しいことを乗り越えるのはそれに付随している副産物にすぎません。

ここにいたってようやくこの録音の凄さの片鱗が見えたような気がします。一時、ひと月ばかり、ほぼ毎日聴いてきてまったく飽きませんでした。その後、毎日ではありませんが、やはり折りに触れて聴きます。聴けば最後まで聴いてしまう。良いアルバムというのは、曲の順番にも魔法があります。この曲の次にこれが出てくる。そこここにハイライトがあって、今聴いている音楽を堪能しながら、もうすぐあの曲になるという楽しみが待っています。音楽がカラダの中に入っていて、内部の音楽が聞えてくる音楽と反応することもあります。そうすると、今聴いたばかりの音をもう一度聴きたくて、リピートもします。

どうやら期待していたとおり、このアルバムは、これから何かと聴き返してはその度に愉しめる、するめ盤への道を歩んでいます。
 
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