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ケルトの笛 インタビュー

L.E.マッカロー(L.E..McCullough)

※ この記事は、ホームページChiff and Fippleより、著作権保有者のDale Wiselyの許可を得て翻訳、公開しています。英語翻訳:村上亮子
 

L.E.マッカローは、Chiff & Fippleのよき会員であり、様々な賞に輝く演奏家、作曲家、プロデューサーである。
また、ケルティック・ワールド・ビート(伝統的なアイリッシュやブリテン島の音楽とアフリカ、ラテンアメリカ、アジア、中東の現代音楽との革新的融合)のパイオニアで主唱者でもある。

インディアナポリスに生まれたマッカローは、若い頃、クラッシックピアノとジャズサクソフォンの教育を受け、1972年7月に、フルートとティン・ホイッスルでアイルランド伝統音楽を学び始めた。
それは、アイルランドで1年暮らし、ダブリンのSchool of Irish Studies で学んだ後のことである。

マッカローは1974年と75年、アメリカ中南部のアイルランド音楽祭のティン・ホイッスル成人の部で1位になり、1975年にはドニゴール州のバンクラナで開かれたオールアイルランド音楽祭のティン・ホイッスル成人の部で、2位になった。
翌年のバンクラナのオールアイルランドでは1976年度新ダンス音楽作曲部門で優勝した。

マッカローはアイルランド音楽に情熱を傾け、研究分野にも手を広げていった。
1974年から78年の間、フィドルのマイルズ・クラッセンとマンドリンのミック・モロニーと共に、保存と学問研究のために、全国を旅行し、アイリッシュ音楽を録音した。
1978年には、「シカゴのアイルランド音楽:民族音楽理論」を著し、ピッツバーグ大学から博士号を受けた。
これはアイルランド伝統音楽を学問的に分析した最初のものである。

彼は1976年には、「アイリッシュ・ティン・ホイッスル教本(The Complete Irish Tinwhistle Tutor)」を書いた。 評判の教授マニュアルで、ミュージックセールズ社から発行されている。 1977年から86年にはシルバースピアー出版社を経営した。 アイルランド音楽の教本とテープの出版に特化した出版社である。

マッカローが出版したテープつき教本「120セッション・チューン(120 Favorite Irish session tunes)」はイリアンパイプスのパトリック・スカイが製作し、ホームスパンテープが配給した。 この会社は1998年にマッカローの教習ビデオ「ティン・ホイッスルを学ぶ(Learn to Play Irish Tinwhistle)」を出版している。

61曲のオリジナル曲を載せた”St. Patrick Was a Cajun”は1998年にオシアン社から販売された。

マッカローは、主に演奏、レコーディング、ツアーの分野でアイルランド音楽に関わり、過去27年間に、”Trim the Velvet”や”Devillish Merry”や”Bourrée Texane”や “Money in Both Pockets” や“The Irish Air”など様々なグループと共にツアーを行っている。
フルート、ティン・ホイッスル、ハーモニカ、アルトサックス、テナーサックス、リコーダー、バウロン、ボーンズ、アイリッシュバグパイプ、ピアノ、シンセサイザー、ギター、様々な民族楽器のパーカッションなどを操り、34枚のアルバムに登場している。

1980年代には、マッカローは伝統音楽の形式に基づく全く新しいジャンルの音楽を創造する特異な才能を持った作曲家・編曲家になっていった。
彼の3枚のソロアルバム、"His Own Kind”、”LateBloomer”、”Feadanísta”には彼自身の作曲した33曲がふくまれ、一方で、スタイルの境界を広げ、ケルティック・ワールド・ビートという全く新しい音楽の混成を作り上げた。
それは批評家達が「究極のフォークフュージョン、多面的で革新的で型破りで幾分無法でさえある…」と評した作風だった。

この10年間でマッカローは多くのテレビコマーシャル、公共放送の音楽、映画音楽などを作曲した。
その中には、”John Kane”、”A Place Just Right”、”Together Alone”、”Waiting for Godot”、”Story Theatre”、”Shadow of a Gunman”、”Consider This”、”Puppet Strings”、”The Greeks and Painting the Universe”のサウンドトラックが含まれている。 また、ケン・バーンズのテレビシリーズ「西部とルイス=クラーク探検隊」やワーナーブラザーズの映画「マイケル・コリンズ」のサウンドトラックで演奏もしている。

1993年には、インディアナポリスのジャズミュージシャン、T.H.ギレスピーGillespieと共に、ノーカットのケルトバレー「Connlai の物語:波に踊る女」のスコアを作曲した。
これはかつてのマーサ・グレアムMartha Graham(ダンスカンパニー)のソリスト、デイビッド・ホッコイDavid Hochoyが振り付けし、批評家たちが「神話と音楽とダンスの大胆な揺らめく融合…過去への心躍る旅、未来への熱い祈り」と評したものだった。

1998年に、ギレスピーとマッカローはホッコイと共に、再びダンスと音楽の融合を試みた。 ケルトバレー「癒しの杯:グイネヴィアの聖杯探索」で、アーサー王伝説のケルト起源を探るものだった。

※左枠:(インタビュアー)デール 右枠:L.E.マッカロー

トロイ・ラットマンがインディー500を制したのは、いつのことでしたか?

1952年です。
車はNo.98。平均時速128.922マイル、3時間52分41.88秒。
アガジャニアンの4気筒。ペースカーはスチュードベイカー。
インディアナ野郎なら誰だって、このくらい答えられますよ。
カレンダーや日頃の暮らしが、インディー500と結びついているのです。
我々の血ですよ。

お見事ですね!アイリッシュ音楽との出会い、特にティン・ホイッスルとの出会いについて、話してください。

1971年8月にアイルランドへ行きました。大学2年の時です。
空港からダブリンへ行く途中、ラジオ・アイルランドで最初に聞いた音楽は、ジェリー・リー・ルイス(アメリカのロックシンガー)の”Breathless” でした。その頃、伝統音楽はアイルランドのメディアで主流ではなかったのです。
その後1ヶ月以上、伝統音楽らしきものを聞くことはなかったのですが、ある晩、偶然に、本当に偶然に、セッションに出くわしたのです。
ダブリン南部の商業地区、ステファングリーンのすぐそばにある「オドノヒュー」いうパブでのことでした。
正面の窓のそばの片隅で、にぎやかな人ごみに囲まれていたのは、フィドルのジョン・ケリー(父)John Kelly、 Srとジョー・ライアンJoe Ryan、イリアン・パイプスのピーター・フェランPeter Phelan、アコーディオンのパディー・オブライエンPaddy O’Brien(若い方、現在はミネアポリス在住 ※やっかいなことに、アイルランドに同姓同名のアコーディオンの名手1922生~1991没がいる)、ティン・ホイッスルのメアリー・バーギンMary Bergin、フルートのミック・オコナーMick O’Connor、そしてギターのオーエン・ペンダーOwen Penderでした。
私はダブリンで一番熱いセッションに入り込んでしまったのです。
そして彼らの音楽がどれほど私を興奮させたか、決して忘れることはできません。
不思議なことに、それは1971年10月3日のことで、アイルランドの偉大な作曲家で伝統音楽を復興したショーン・オリアダSeán O'Riadaがロンドンで亡くなった、正にその日だったのです。
オリアダの魂がこの世を離れる時、私の中に入ってきたのでしょうか。
誰にもわかりません。
インディアナで十代の頃、ブルーグラスやアパラチア音楽(アメリカ、カントリーミュージックの源流)の中に、アイルランド音楽の名残を聞いていて、ポコ(the Poco)や、ブリット・ブラザーズ(Burrito Bros)の音楽に出会いました。
Workingman's Dead(ロックバンドGrateful Deadの5枚目のアルバム)がその頃、出ていたのですが、どちらかというと素朴なジグやリールやスローエアーが私の心をつかんでしまいました。
クリスマスに両親が小さなカセットレコーダーを買ってくれたので、何ヶ月もアイルランドをヒッチハイクして回って、伝統音楽の歌い手やミュージシャンを見つけては、録音しました。
本当に運がいいことに、ブレンダン・ブラナックBreandan Breathnach、ヒュー・シールズHugh Shields、トム・マネリーTom Munnelly、ショーン・オサリバンSean O’Sullivan、ブライアン・ボイデルBrian Boydell、テリー・モイラン(Terry Moylan)、そしてジョン・ケリーJohn Kelly. Srとその家族といった碩学に会うことができたのです。
ある時、パディー・モロニーはダームストリートにあるクラダレコードのオフィスで、私と1時間も話してくれたのです。
これらの人はみんな、信じられないほどの知識の泉でした。
インディアナから出てきた少年が、アイルランド音楽を求めてあちこち尋ねて回っているのを、面白がってくれたのでしょう。
でも私は必死だったのです。
アイルランドを離れる時、ティン・ホイッスル(ジェネレーション真鍮D管)を持って帰り、ジャズのレコードにあわせて吹いたりして遊んでいました。
でも、カセットレコーダーの前に座って、本気で一音一音、覚えたのは1972年7月3日になってからのことでした。
それは、"Give Me Your Hand"(“Tabhair Dom Do Lamh”)で、上品で、独特なメロディーでかなり覚えやすいものでした。
2時間で吹けるようになりました。メロディーだけですが。
それで次の日、「チーフタンズ2」のアルバムの中のポルカを覚え、後は次から次へと覚えて行きました。夢中でした。

最も影響を受けた人はどなたですか?

その頃、アイルランド音楽のレコードは、あまりありませんでした。
せいぜいLPレコードが20数枚といったところでしょう。(まさか!そのくらい、今なら1週間で出ています。)
しかも、ほとんどが選曲集だったのです。
全体的な感じという点では、ウィリー・クランシーWillie Clancyがパイプやホイッスルを吹いているのを見つけてきて、学びました。
フルート奏者のシーマス・タンジーSeamus Tanseyは何枚かのアウトレット・レコードのLPに、すばらしい曲を残しています。
バンド「プランクスティー」Planxtyの最初の2枚のLPにあるイリアン・パイプス奏者リアム・オフリンLiam O'Flynnのソロは秀逸です。
ブレンダン・ブラナックBreandán Breathnachの「アイルランドの伝統音楽とダンス」"Folk Music and Dances of Ireland"に付属していたカセットの曲を1つ1つ暗譜していきました。
これは1971年に発行されたもので、当時のアイルランド音楽を学ぶ人のバイブルのようなものでした。
それから、アイルランドのパブやセッションで録音した曲も、たくさんありました。
それで、アイリッシュ音楽がどんな感じかわかったのです。
1972年に、民族音楽学を学ぶために、ブルーミントンのインディアナ大学へ行きました。
そこでフィドラーのマイルズ・クラッセンMiles Krassenに出会ったのですが、彼はすでにアパラチア音楽に詳しく、アイリッシュ音楽にも傾倒していました。
私たちは何時間も一緒に演奏したり、話したりしました。
マイケル・コールマン(Michael Coleman…20世紀初頭にアメリカで活躍したフィドル奏者)やジェイムズ・モリソン(James Morrison、同)やパッツィ・トゥーヒイ(Patsy Touhey、同パイプ奏者)や、パディ・キロラン(Paddy Killoran、同フィドル奏者)などの78回転レコードのテープをたくさん手に入れました。
マイルズは、これを一音一音分析したのです。
率直に言って、アイリッシュ音楽をどう聞くかについては、彼から多くを学んだと思います。
構造上何が起こっているかを、どうやって的確に見極めるかということです。
マイルズはクレズマー音楽(東欧ユダヤの民族音楽)の方へ行き、世界宗教学で博士号を取り、今はオバーリンで世界宗教学を教えています。
でも、今でもアイルランドの曲を演奏するのが一番好きですよ。
誰か一緒にやる人がいたら、いつでもフィドルを持ち出します。
1973年に、私は論文を書くために、3ヶ月のフィールドワークをしました。
シカゴやデトロイト、クリーブランド、ボストン、ニューヨーク、フィリー、ピッツバーグのアイリッシュ・ミュージシャンを訪ねるいい口実でした。
そのころインディアナポリスには、アイルランド伝統音楽をする人は、一人もいなかったのです。
たったの一人も、です。
そしてその後5年ほど、私はチャンスを捉えてはシカゴを訪れました。
シカゴこそ、私が多くの曲を学び、スタイルを身につけた場所なのです。
シカゴのフルート奏者ノエル・ライスNoel Riceは、とりわけ才気ある、明晰な音楽家で、ベーム式フルートでアイルランド音楽を演奏するもっとも熟達し、かつ斬新な演奏家といっていいでしょう。
ノエルはホイッスルでロールがどのようになるのかを実際に見せてくれました。
また、シカゴではシェイマス・クーリー(Seamus Cooley 1997年没)とも多くの時間をすごし、古典的名曲をたくさん教えてもらい、また、淀みなく流れるリズミカルでメロディックな手法も学びました。
しかし、曲を演奏する時、その曲をどのように考えるかということに関して、私が一番影響を受けたのは、78回転レコードで聞いたフィドル奏者、とりわけスライゴー・スタイルの奏者やその後継者、ジョン・マックグリ-ビーJohn McGreevy、ジョン・ヴェージーJohn Vesey、ジミー・ニアリーJimmy Nearyなどでした。みんな故人になってしまいました。
修行時代、主にフィドラーと一緒に演奏していたので、基本的に私の演奏手法は、フィドラーがするようなジャイヴに合わせてきました。
フィドルの装飾やボウイングやスラーをまねると言ってもいいでしょう。
シカゴのバグパイプのジョー・シャノンJoe Shannonは独特のスタイルがあり、20世紀初頭のパイプ奏者トム・エニスTom Ennis、エディー・マラニーEddie Mullaney、パッツィー・トゥーヒイなどと、スタイルの点では直接つながっていました。
その、ジョーの家で、彼があのすばらしいテイラーパイプス(Taylor Pipes、19世紀末にTaylor Brosが製作したイリアン・パイプスのこと)を演奏するのを何時間も見つめていたものです。
音楽的影響そのものではなかったですが、コンサティーナとアコーディオンのテリー・ティーハンTerry ‘Cuz’Teehanやフルートのケヴィン・ヘンリーKevin Hanleyやアコーディオンのジミー・ソーノンJimmy Thornonは、持っているレコードを気前よく聞かせてくれて、尋ねれば、音楽の知識も多くの曲も惜しみなく与えてくれた大勢のシカゴのアイリッシュ・ミュージシャンの中でも特筆すべき人たちです。
私がアイリッシュ音楽について知っているすべては、これらの人々のおかげなのです。

使うホイッスルは決まっているそうですね。
それも安価な…

レコーディングやコンサートで使っているホイッスルはジェネレーションのニッケルD管です。
ダブリンで2ドル25セントで手に入れました。
1975年だったと思います。
ニッケルメッキは剥がれてしまって、へこみやツギもあります。
でも音程は正しいし、どの音も常にはっきりしています。
個人的には、(私の単なる意見ですが)、私は澄んだ音が好きなのです。
甘く、清らかで、くっきりして、澄み切ったティン・ホイッスルの音色。
それは、3枚刃のカミソリのように空気を引き裂き、スピードスケーターのように高音域まで舞い上がる。(ちょっと思ったのですが、”Riverdance on Ice”なんてどうでしょう。本気になる前に誰か止めてください!)
言い方を変えると、風音の混じる音はあまり好みではないのです。
もちろん、これは完全に好みの問題だということはわかっています。
私は、合衆国憲法修正第一条(注:言論、出版、請願の自由が連邦政府によって制限されることを禁じている)を擁護しますから、澄んだホイッスルの音を構成するものは何かについて、「なんびとも独自の信念を持つ権利を有する」のを認めるのにやぶさかではありません。
でも、クラークはあまり好きではありませんでした。
クラークは、独特なティンブレル効果を生む多くの上音を排除した、私が清らかな音とみなす音を出さなかったからです。
つまり、フィドルとか、バグパイプ、コンサティーナ、バンジョー、アコーディオンなどの、もっと強く、大きく、正確な音を出す楽器と一緒に演奏すると、クラークは、優しすぎで、弱くて、不鮮明で、はかないのです。
それ自体は悪くないのですよ。
でも、ホイッスルだけで演奏したいとは、あまり思わないでしょう?それに、何年もの間、私がホイッスルでやってきたレコーディングも演奏も、音色の明澄さが必要なのです。
特にジャズやラテン、ラグタイムに関わる時は、一つ一つの音がはっきりと聞き分けられる必要があるのです。
風音の混じった音は、私がやる音楽で要求されるような、すばやい反応をしないのです。
人それぞれです。
でも、私にとっては、ジェネレーションをくれ!でなきゃ、チューバをくれ!です。
とは言っても、コープランドのDホイッスルは持っています。★とてもいいし、大きな音で、力強い。
2オクターブ目で少しかすれた音もありますが、許容の範囲だし、その音が向いていると思った曲には使うこともあります。
今のところ、ローDホイッスルを持つ差し迫った希望も必要もありませんが、Jay Ungar /Molly Masonの Lover’s Waltz のCDでコープランドを吹きました。★とても甘くて素敵な音でした。
私の手に持たせてくれたら、どんな管でも吹きますよ。

「ケルティク・ワールド・ビート」という言葉はどうして生まれたのですか?

1983年のことです。
寒い気候がいやになって、テキサスのオースティンに引っ越しました。
あの町の音楽の豊かさは、すばらしいものでした。
文字通り、この地球上にあるすべてのタイプの音楽が演奏されていましたし、ミュージシャンも抜群でした。
すぐにフランス伝統音楽のバンドと親しくなりましたが、彼らはアイルランドや、ケイジャン(カナダ南東部の旧フランス植民地)、メキシコ音楽、フランスのブルターニュ音楽、カナダのケベック地方の音楽も少ししていました。
で、後はお察しの通りです。
気付いたのですが、たとえば、メキシコのワパンゴは、6/8拍子です。
本質的にはダブルジグです。
フランスのロンドも同じです。
で、ジグとワパンゴとロンドを融合させたら、どんなすばらしい音楽が生まれるか?
メキシコとアイルランドとフランスのポルカをメドレーにしたら?メレンゲ(西インド諸島起源のダンス音楽)と赤道地域のサンバリズムを混ぜ合わせたらどうか?素敵でしょう?ポルカの世界です!ギタリストで、歌手で、ソングライターのダン・デル・サントDan Del Santoは、ポキプシー(ニューヨーク)の出身ですが、70年代後半からオースティンに住んでいました。
アフリカや、カリビア、ラテンの音楽を扱うラジオ番組を毎週担当していて、このような第三世界の音楽やジャズやロックを演奏するすばらしいバンドを率いていました。
彼こそ、キング・サニー・エイドやフェラなどの現代アフリカミュージシャンへの関心を育てた最初の北米人の1人です。
いずれにせよ、彼は自分の音楽を「ワールド・ビート」と呼び、80年代後半、それは私がやっていることと、ベースがアイリッシュだということを除いて、ほとんど同じでした。
それで、「ケルティック・ワールド・ビート」なのです。

Feadanistaはその過程を記録したアルバムです。
私は "Girl That Broke My Heart"というリールを取り上げ、英語とスペイン語の歌詞をつけ、最初のパートをサルサのリズムとアレンジに変えました。
それは気付かぬうちに、ホイッスルとフルートの生粋のアイリッシュのメロディーに移り、一方でサルサバンドは唸りをあげます。
全く新しいものの誕生。
ケルティック・ワールド・ビートです。
しかし、どの融合した作品でも、もともとの曲を聞き取ることができるし、特徴も見て取ることができます。
つまり、もともとのアイディアはアイリッシュ音楽の美しさを披露することだからです。
だから、自分のしていることで、道に迷うことはないのです。
シンセサイザーやサックスやメレンゲやハーディーガーディーに深入りしても、ある点では、本来のメロディーに目を向けなければならない。
そうでなければ、何もなくなってします。
わかりますか?好きなだけ曲を飾り立てていい。
でも、その曲はちゃんとそこになければならないし、聞き取られなければならない。

でも、今は伝統音楽の枠に戻ってきた。

ええ、最近の幾つかのレコーディングは共演者1人か2人のホイッスルのソロでした。
もし誰かが10万ドルとメジャーレーベルの契約をくれたら、史上最悪のケルティック・ワールド・ビートのバンドを率いて、ツアーに出ますよ。
それまでは、みんなが楽しんでくれるシンプルなセッティングで、ホイッスルとフルートを吹いていきます。
それにT.H.ギレスピーと私が始めたケルティックバレーは、私の融合の欲求をかなり満たしてくれています。
また最近は、音楽を教えるということにも、もっと目を向けたいと思っています。
私が頂いた賜物を次の世代に引き継ぐ時です。
シンシナティーのライリー校で教育セッションをしましたが、多くの才能ある人々が、集ってきます。

ところで、ご職業は?

ありがたいことに、いつも何かしら芸術に関わることをしてきました。
だから、職業もまた、音楽関連なのです。
1996年以来、インディアナ大学(インディアナポリスのパデュー大学)のヒューマニティー・シアター・グループの事務長をしています。
アメリカン・キャバレー・シアターと一緒に仕事をしています。
私の上司で、劇作家ディレクターのクラウド・マクニールが経営しているシアターで、大学と地域社会のための教育支援シアターをプロデュースしています。
私たちの社会問題を扱った劇団、「アクトアウト・アンサンブル」は全国をツアーし、ピープル、モード、ワシントンポストのような雑誌や、公営放送の「ヘルスウォッチ」などで取り上げられています。
なかなかいいですよ。
もし、お住まいの地域におじゃますることがありましたら、ぜひ、チェックしてみてください。
私の予定は、結構融通が利きます。
また、インディアナ大学の英語学部で詩や劇の創作も教えています。★スミス&クラウス(出版社)のためにオリジナルの子供劇の本を1年に4冊くらい書いています。
それから、あちこちで劇場音楽の作曲をしたり、大人のための劇を自分でプロデュースしたり、制作の依頼を受けたりしています。
毎日が大仕事です。
ここ何年も、こんな生活をしてきたので、私には忍耐力とスタミナがあります。
少なくとも、毎朝ベッドから這い出して、Chiff&Fipple の新しい記事をチェックしてみるくらいには。

一緒に仕事をしてみたいと思う方はどなたかいらっしゃいますか

一緒にツアーしてみたいのは、ギタリストでシンガーのナンシー・コネスク (Nancy Conescu)です。
オレゴン州ポートランドの人です。
演奏者としても、シャン・ノース・シンガーとしてもすばらしい人です。
ナンシーは"St. Patrick Was a Cajun”や、この春に出るホームスパン社の伴奏つきの“Favorite Irish Session Tunes”(CD)にも参加しています。
セントルイスで、4月のマックガークのフェスティバルや全国のほかのフェスティバルでも彼女と一緒にやりたいですね。
彼女のCD”Long Distance”は、素晴らしいCDです…私は最近リリースされているほとんどのものにそう言っているかもしれませんが。

初心者や、中級の人が陥りやすい間違いには、どんなものがあるでしょうか?

大人についてですね。
子供の場合は、アイルランドの曲の構造になじませるのは、かなり難しいです。
というのも、子供は、本当の意味での比較基準を持っていないからです。
アイルランドで育ったとか、住んでいるとか、そういった家族や演奏者と交わっているとかというのなら別ですが。
初心者は、穴をしっかり塞がない。
強く吹きすぎる。
中級者は、曲を覚える時、演奏者がしていることをしっかりと聞く。
それは大事なことです。
そして、聞いたもののほんのわずかなニュアンスをもまねる。
後になって、その半分は捨ててしまうかもしれませんが、聞いたものを再現できるようになる以外に、表現方法を学ぶいい方法はないのです。
もちろん、人によって聞こえ方は違います。
でも、ひとつの曲のベースとなるメロディーを覚えた後でも、もどって、変奏とかリズムの微妙なところを聞いてみるのです。

まだ、あなたの教習ビデオを見たことがないのですが、少し教えていただけませんか。
それから、どうして、そのようなものを作ろうと思ったか…

ホームスパン社のハッピー・トローンに、ビデオでホイッスルのレッスンを作りたいと言いました。
彼も賛成してくれて、1996年の5月に完成しました。
「ティン・ホイッスルを学ぶ ”Learn to Play Irish Tinwhistle”」は60分の基礎レッスンで、後で来てくれればお見せしますが…。
構成を考えて一語一語原稿を書いて、アイリッシュホイッスルのテクニックの基本を網羅していると思います。
一番いいところは、指使いを大きく撮っていることです。
読者のために、楽譜と練習曲とスケール表の載った小冊子がついています。
ニューヨーク、ウッドストックのネヴェッササウンドスタジオで録音しました。
いいスタジオですよ。
普通の音楽の仕事にも使えるし、いいところです。

どこで手に入りますか?

ホームスパンに電話してください。
1-800-338-2737です。
19ドル95セント。
レッスン1分で33セントです。
私の顔やネクタイの好みが鼻につくまで何回でも何回でも聞けますよ。

“St, Patrick Was a Cajin” について教えてください。

1973年に最初の伝統的アイリッシュの曲を作曲しました。
その後何年にもわたって、80もの曲が、様々な場所で、様々な時に作られました。
あちこちで違うミュージシャンに演奏されたのもあるし、折々のレコーディングに使われたのもあります。
1995年のある日、デイブ・マクミスキー(Dave McCumiskey)(ノーサンブリアンマンドリン奏者で、ミュージックセールズ社の西海岸販売部長)が、「L.E.マッカロー・ソングブック」を出してはどうかと言って来ました。
ミュージックセールズは「アイリッシュ・ティン・ホイッスル教本 (The Complete Irish Tinwhistle Tutor)」の出版をしている会社です。
私は、一冊分の歌をオレが歌うのを聞きたいのは、頭がどうかしたヤツだけだが、演奏したものならたくさんあると答えました。
デイブはオシアンプレスのJohn Loesbergに連絡を取るように行ってくれました。
ジョンはすぐにこのアイディアに賛成してくれました。
曲は悪くないし、斬新だし、レコーディングは正統派のホイッスル演奏で、ギレスピーやコネスクの共演もあって、私自身は”St.Patrick Was A Cajun"は音楽史的価値があると思っています。
これは伝統的アイリッシュの表現法で作曲されたオリジナル曲の初めての曲集で、作曲家の知的なまた感情的な面を含む作曲の細目を詳しく記録しようとしたものです。
今のところは、どうということはないかもしれませんが、50年後、100年後、200年後には、このような情報にアクセスできる可能性は、研究者にとって価値のあるものになるでしょう。
考えてみてください。
オキャロランが作曲している時、彼の頭の中で何が起こっていたかを知ることができたら何と素晴らしいか。
私が作曲したものをオキャロランと比べようとか、将来も記憶に残るだろうとか、言っているのではありません。
が、もし20世紀後半の人がアイリッシュ音楽を作曲している時、何を考えているか知ることができれば、それはきっと意味のあることでしょう。

サウンドトラックでも演奏していますね。
特にお気に入りはありますか?

アイルランドの血を引くアメリカ人として、「マイケル・コリンズ」のサウンドトラックに参加できたことはよかったと思います。
それは、私の「民族愛の高まり」が珍しく表に出たものでした。
家族がアメリカに来てもう随分たちますから。
でも母とその血縁者は、家族の1人が、たとえ映画という形であれ、アイルランドの歴史の本質に関わることができたのを誇りに思っていることでしょう。
ケン・バーンズの映画はどれも偉大です。
歴史を深く探ることになるからです。
私もそれを楽しんでいます。
次の映画は19世紀の女性の権利拡大運動についてのもので、いい音楽がたくさん入っています。

アイリッシュ音楽を学ぶ2つの方法、
(1)伝統的な耳で学ぶ
(2)楽譜を使う
について、どう思われますか。

単にメロディーの大まかな枠組みを覚えるだけなら、どんなやり方でもいいと思います。
レコードを聴くのでも、楽譜を見るのでも、音楽家から1対1の指導を受けるのでもいいのです。
何でもいいのです。
でも、一旦、曲を覚えたら、許容できる範囲の伝統的アイリッシュ「スタイル」で表現できるようにならなくてはなりません。
言ってみれば、本でフランス語を学ぶのも結構。
でもやがてフランス人を相手に話して、フランス語らしくなっていかなければならない。
楽譜から「スタイル」を学ぶことは出来ません。
それはクラシックからパンクやアンデスのサンポーニャに至るまで言えることです。
楽譜ではある種のテクニックの要点は書き表すことが出来ますし、私もオキャロランの難しい曲の楽譜を調べて、メロディーを覚える前にメロディーの青写真を得ることもあります。
でも最後には耳を鍛えて、あなたが演奏したい曲の手法のために、スタイルの要素を聞き取って再生できなければならないのです。
最終的には、こうしてあなた自身のスタイルを確立できるようになるのです。それは無意識に起こるかもしれませんが、必ず起こるのです。
私のホイッスルがCDやサウンドトラックやコマーシャルに出てくると、必ずわかるそうです。
私もそうです(大概は)し、あるスタイルの要素を的確に指摘することもできますが、どうやってそれを身につけたかとか、このような特徴的スタイルを生み出すテクニックをどうして使おうと思ったか、言葉で表すことはできません。
でも、すべてのプレーヤーは自分のスタイルを持っていて、それは音に表れます。
いずれにしろ、どんなところからでも曲を学んでください。

今、何か新しい計画はありますか?

2月13日にシンシナティーへ行って、ライリー校でホイッスルを教えるソリストとして参加します。
それから、「シルバー・アーム」と言うバンドとリハーサルして、本番は3月13日のシンシナティーのケルティック・フェスティバルです。
2月13日の夜にはどこかでジャムセッションをすると思います。
3月14日には、インディアナポリスのインディアナ・ルーフ・ボールルーム(Indiana Roof Ballroom)で昼に行われる第439回ハイバーニアン・ブレックファスト(Hibernianとは、アイルランドと言う意味の雅語)で、「ザ・アイリッシュ・エアーズ」と言うバンドと演奏します。
3月16日には、NBAのペーサーズの試合のハーフタイムに、マーケット・スクウェア・アリーナで、アイリッシュ・エアーズが演奏するインディアナポリス・ダンサーズのダンスの集いがあります。
3月17日は、もっとも幸せで夢のような音楽の日です。
アイリッシュ・エアーズが、2時と7時にアメリカン・キャバレー・シアターで行われる音楽/ダンス/ドラマ・ショーの主役を演じます。
クロード・マクニールの”I Am of Ireland”は北アイルランドの今年実現するであろう(そうあってほしいものだが)平和がテーマです。
4月16日から18日には、インディアナポリスのシビック・シアターでケルトバレー”Skin Walkers”の初演があります。
私達が生演奏しますし、素晴らしいものになります。
ああ、それから「戯曲を書く」ワークショップがあって、3月3日から6日には、ノースカロライナのグリーンズバラの素晴らしいサウスイースタン・シアター・コンフェランスの出版ブースの仕事をします。
グリーンズバラでは、去年、普通に「アイリッシュパブ」と呼ばれている場所で、セッションをしました。
その地域にお住まいの方で、セッションをなさるなら、コンベンションセンターのホリデーインにお電話ください。
夜は空いていますから、喜んで参加させていただきます。

最後に何か一言どうぞ。

ティン・ホイッスルは素晴らしい楽器だと思います。
他の楽器もいくつか演奏するのですが、ホイッスルは表現、感情、魂の驚くほどの広がりと深さを持っていることがわかりました。
ホイッスルを演奏することが色々な点で私の人生をポジティブに変化させ、何千人もの本当に素晴らしい人と出会うことが出来ました。
誰にしろ、最初に筒に穴をあけて吹くこと思いついた人に感謝です。

そうだ、世界中のティン・ホイッスルを吹く人が、ある日、いっせいに「シーベグ・シーモア」を吹いたら、すごいと思いませんか?
ホイッスルの大合奏で、地球が軌道からずれてしまいますよ。

あ、インディアナ野郎から皆さんによろしく。
「借金回収人があなたのシボレーを見つける1時間前に、あなたが天に召されますように」

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