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ケルトの笛 インタビュー

コーマック・ブラナック(Cormac Breatnach)

※ この記事は、ホームページChiff and Fippleより、著作権保有者のDale Wiselyの許可を得て翻訳、公開しています。英語翻訳:村上亮子
 

コーマックは20年以上にわたってホイッスルと木製のフルートを吹いている。
35年前にダブリンに生まれ、アイルランド語とスペイン語を話す家庭で育った。

今はプラスティックのホイッスルとアルミのロー・ホイッスルを吹いている。
「ジャズ風ジグの貴公子」(「アイリッシュ・ボイス」94年10月号)と呼ばれ、「アイルランド伝統音楽に現代のリズムとジャズ風即興演奏を加えたのは彼が初めてではないが、その概念を誰よりも推し進めた人物である」と評された。

コーマックはアイルランド語とスペイン語を母国語として話すことができる。
それで、去年、ギャラヴァン・ギャラガー(メアリー・ブラック・バンドのプロデューサー)のプロデュースでアルバムを録音したが、その中で初めて、1曲をアイルランド語、もう1曲をスペイン語で歌っている。
20人のゲストと11曲を選び、伝統音楽とモダンジャズの音調を合体させ、自作の曲とドーナル・ラニーやニール・オキャラナン(Niall O’Callanain)の曲を録音した。
この新しいアルバム”Musical Journey”は完全に自費製作で、コーマックによって、マンダラレコードから発売された。

コーマックは妻とともに、初期キリスト教の美しい聖地であるグレンダロッホの近く、ウィックロー州Larraghの郊外に住んでいる。
妻アデール・キング(Adele King)のカラフルで力強い絵はコーマックのアルバムの表紙を飾っている。

コーマックはコークのギタリスト、マーティン・ダンリー(Martin Dunlea)(ダブリン州ニューパークのローナン・ギルフォイル(Ronan Guilfoyle)音楽学校でギターを教えている)と練習やレコーディングを行っている。
彼らはアルバムのメロディーに解釈を加え、新しく作曲したものや、マーティン自身の曲も紹介している。
また、歌もレパートリーに加えようとしている。

はじめてホイッスルに出会ったときのことをお話ください。

たぶん4歳か5歳だったと思います。
父はホイッスルとハーモニカとコンサーティーナを少しやっていました。
父の友達のPiaras O’Greagain は近所の子にホイッスルを教えていて、私も教えてもらうようにと勧められたのです。
面白い人でした。
バグパイプも含めて、本当にたくさんの楽器が演奏できて、ただで教えてくれるのです。
彼の魂が平安であらんことを…今でも晴れた日には彼のバグパイプが聞こえてくるようです。

フルートはいつ始めましたか?

どの楽器をするにしろ、まず、ホイッスルから始めるようにと、私も言っているのですが、始めるのにはホイッスルがいいのです。
1979年に、居間の床に座って宿題をしていた時、テレビのライブで、評判の「ボシーバンド」が演奏しているのを聞いて、マット・モロイの演奏を聞いて、感動で打ちのめされました。
母から125アイルランド・ポンド借りて、フルートを買いました。
「サーグッド」1860でキーが幾つかついて、ラージボアで、甘い音色でした。
残念なことに、数年前に売ってしまいました。
数ある後悔の中でも最大のものです。
持っているべきでした。
それ以来多くのフルートを買いましたが、「サーグッド」ほどのものは…初恋みたいなものだと思います。

あなたが子供だったころ、ホイッスルには頻繁に出会ったものですか?

しょっちゅうですよ。
学校でも、授業中に、みんなで吹こうと言われることがありました。
ここ20年ほど一緒に活動しているNiall O’Callanain(ブズーキ奏者)は、 レコードにあわせて吹き始め、彼が行進して教室に入ってきて、みんなで聞いたのを覚えています。
自分勝手な理由だと認めなくてはなりませんが、私は彼にギターとブズーキをするようにと勧め、ドイツにいる義理の妹の従兄に6弦の「ギリシャ」ブズーキを持ってきてもらい、オランダにいる兄が、払ってくれました。

学校ではどのような音楽教育がありましたか。

小学校でみんなで笛を吹いたり、中学校で授業を中断して、校内コンテストのために練習したり、ホイッスルの授業があったりすることを別にすると、そのころは伝統音楽で評価されたり、上の学校へ行ったりする可能性はありませんでした。
今では、リムリックのワールドセンターにワールドミュージックの教育課程があってうれしいことです。
ともかく、こんな風に授業を抜けられて、ラッキーだったと思っています。
おかげで学校が楽しくなりました。

コーマック・ファン(Cormac Juan)(注:Juan は彼のミドルネーム)という名の男に出会った人は、興味深い背景を持った人と出会ったと感じるでしょうね。
ご家族についてお話ください。

そうですね。
私は、3ヶ国語を話す半音楽家の家庭で育ちました。
母はバスク生まれで、バスクのアルゴルタの人です(旧姓はMenchaca Dillizといいます)が、マドリードとドイツで育っています。
母が12歳のときにスペイン内乱が起こり、第二次世界大戦が起こったとき、ドイツへ逃げました。(母方の祖父はドイツ人でヘルマンという名でした)
私の父はジャーナリストで、フランコ将軍にインタビューするためにマドリードへ行って、そこで母と出会ったのです。
2人は北アフリカ、タンジールで暮らし、それからアイルランドへ戻ってきました。
だから、両親は、私たち子供が将来英語を学ぶことになるだろうとわかっていて、自分たちの文化的背景を守ろうとしたのだろうと思います。
でも、実は、父はアイルランド語を話す家庭で育ったのではないのです。
父は12歳のときに自分でアイルランド語を学び、苗字をWalsh から Breatnachに変えたのです。

もっと続けることもできますが、話をまとめると、Walshの人々は世界中に広がり、名前をフランスやオーストリアでは ”Vallois” 、イングランドでは ”Wallis” に変えました。
私の親戚はミシシッピ川近くのポイントクーピーという所に落ち着き、そこでイギリスのリバプールに綿花を輸出していまして、認めたくはないのですが、奴隷を所有していました。
彼らの子孫は ”Cotton” という名で、今でもそこにいると思います。

1985年にはドーナル・ラニーのケルティック・オーケストラに参加していますね。
まだほんの少年だったでしょう?どんなものでしたか?

少年?22歳でしたよ。
まあ、若かったですが。
でも、ラニーさん自身、ボシーバンドにいた頃はそんな年齢でした。
残念なことに、視聴者はケルティック・オーケストラのレコードを聞いていないし、可能性はあったのに長続きしなかったのです。
問題は、参加するミュージシャンは33人もいるのに、半分しかリハーサルにやって来られなかったことです。
私は1分1分を楽しみました。
私が憧れていたミュージシャンの一人と親しくなれたのです。
ドーナルの考えは、1987年4月の「オリアダ記念」のために、もっと小さなバンドを結成したときに実現したと言えると思います。
これはダブリンで3日間行われる音楽イベントで、テレビで生放送され、何枚かのアルバムになりました。
私があの短命のバンドでフルートを吹けたのは幸運でした。

半分冗談で聞くのですが、エルビス・コステロはどんな方ですか?
また、「平和・愛・理解」は何が滑稽なのですか?

(ドーナルのバンドで)テレビ番組を収録する前に、リハーサルで3日間一緒に仕事をした人であるという以外に答えようがありません。
ショーン・オグ・ポッツSean Og Pot (パイパー)や ナリグ・ケイシーNollaig Casey(フィドラー) やアーティ・マグリン Arty McGlynn(ギターリスト)と一緒に彼の歌の演奏をしたのは楽しかったです。
同じ番組にマット・モロイMatt Molloy(フルーティスト)が出ていて、とても刺激的でした。
自分の出番が終わった時の彼の暖かい仕草は決して忘れられません。
手を伸ばして、聴衆の前で私の手を握るのです。
本当に伝統音楽の世界に歓迎されていると感じました。

ところで、デシャール(Deiseal)というバンドで活動されていましたね。
そのバンドは今はもう…どうしてなのでしょうか。
そのバンドの方向性には満足していましたか。
あなたの最初のアルバム”The Long Long Note” と最新の “Sunshine Dance”の間には、大きな違いがありますね。

デシャール(Deiseal) はニールと私で、オーヴァートンのF管やほかのホイッスルの音にこだわって、デュオをやろうというところから始まりました。
1992年のことでした。
それからポール(Paul O’Driscoll) が加わりました。
そのころ、ポールはダブリンに住んでいました。
彼は元々最後の曲だけに参加していたのですが、私たちはポールの音が気に入って、バンドに入ってもらうことにしました。
“Deiseal”というのは古いアイルランド語で(ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」にこの言葉があるそうです)、「太陽回りに」とか「太陽の動きを追って」という意味で、伝統音楽をしているけれども、他の音楽の影響もあるという点で、自分たちが「進歩的」で、「正しいことをしている」という考えが気に入っていました。
”Long Long Note” は1993年に発売されました。
じっとしておれない、前に進むというのは創造過程の一部だと思います。
こうしてDeiseal No.2では、-1994年にドイツのある音楽祭でジャズサクソフォーンのリッチー・バックレイ(Richie Buckley)に出会い、アイルランドに戻ったとき、彼との交流を再開しました。
妻のアデールはジャズドラムのコナー・ギルフォイル(Conor Guilfoyle)(妻のドラムの師匠)を推薦し、最後にフランスのリヨンからジャズシンガーのミラベル・(Mirabelle De Nuit)を招き、アルバムを作りました。
一緒にやったコンサートはたった1回で、ミラベルがフランスに帰ってから、残りのものでアルバムを完成させ、1996年5月にイングランドとウェールズでツアーしました。
ツアーの最中にスタークレコードで私たちを支援してくれていた人(benefactor)が急死して、私たちは解散することにしました。
音楽的にも、性格的にも差がありすぎて、(よくあること?)…それに私が8月(Deisealの最後のコンサート)に結婚して、それから私のソロアルバムを計画しました。
新しいDeisealでしたかったことは、私のスタイルとリッキーのスタイルをより有機的にクロスさせ、私たちが一緒に新しいメロディーを作曲するに至ることでした。
1枚目のアルバムと2枚目のアルバムの2つの異なった音色に、今も誇りを持っています。
2つの音色を比較するべきではないのです。
が、最初のアルバムのほうにより特別な瞬間があるように思います。

あなたのすばらしいCDに話題を移しましょう。
スザートのC管とオーヴァートンのローF、キリアン・オブライアンCillian Ó BriainのローDを使っていますね。
まず、あなたにとってスザートの魅力とは何でしょうか。
スザートの新しいロー・ホイッスルを吹いたことはありますか?

残念ながら、多くのホイッスルを吹いたり、知っていたりするわけではないのです。
ですから、このインタビューが終わる前に、そのような笛の製作者の住所などのリストを教えていただけたらありがたいです。
そのような方と連絡を取って、新しい喜びと出会えると思います。

スザートのハイホイッスルは力強く、美しい音色がします。
金属のホイッスルと比べると、特にアコーディオンやバグパイプとのセッションでは、より力があるように感じます。
今もスザートのロー・ホイッスルを試していますが、ハイホイッスル、特にB♭やCのほうが好きだと思います。
その音色はリコーダーの音とホイッスルの音が混ざり合ったように思えます。
奏者は、スザートの持つ独特な個性に自分のスタイルを合わせなくてはいけません。
スザートは普通のティン・ホイッスルのようには演奏できないのです。

スザートのマイケル・ケリスチェェクMichael Kelischek は、試奏のために何種類かのロー・ホイッスルを私にくれました。
高い音域には苦労しています。
低い音域は美しいし、演奏しやすい楽器です。

あなたのF管オーヴァートンを作ったのはどなたですか?

それはオーヴァートンというかで、Cillian Ó Briain製作の「新」オーヴァートンで、もともと1本の筒だったものを切断してもらい「チューナー」つまりアルミのチューニング・スライドをつけています。
とても気難しい楽器で、スタジオで音が変わるのでサウンドエンジニアが振り回されます。

CDではローFホイッスルの録音はあまりありません。
コリン・ゴールディーはF管がお気に入りの調子のひとつだと言いました。
あなたは最初にホイッスルの調子を選んだのですか。
それとも特にそのホイッスルが気に入って、その調で演奏するようになったのですか。

その調子が好きなのです。
F管に馴染んできたころ、少し難しいかなと…私の限られた能力でローDを吹くのは…こんなことがあって、私はローFのほうへ行って、1989年に最初のCDを”Méristem”というグループで、それから1993年に”Deiseal”で作りました。

Cillian Ó Briainの名前は、彼が改造したファドーグのホイッスルで知っているのですが、特によく知られた製作者というわけではありませんね。
彼のローDについて教えてください。

彼はダブリン生まれのイリアンパイプ奏者で、ロー・ホイッスルを含むホイッスルの製作者、演奏者です。
今はケリー州のディングルに住んでいて、彼の工房はそこにあります。
昔からの依頼人、チーフタンズのパディー・モロニーによって、優れたリード楽器製作者だとみなされ、イリアンパイプスの需要はものすごいものです。
私も彼のところへ行って、ローFを作ってくれと頼んでいるのですが、彼にとっては時間が問題ですね…

多くの人があなたのCDの歌をほめていますが、歌うのは乗り気でなかったとか…

長い間、人前で歌うのは恥ずかしくて…。
自信もなかったし、歌は演奏ほどできないとわかっていたので、人前で歌うのはいやだったのです。
ともかく自分のアルバムで2曲歌うことに決めて、自分の生まれ育ちを考えて、アイルランド語とスペイン語を選んだのです。
また、レコーディングに入る前に歌のレッスンに行くかどうかは、考えないことにしました。
かなりうまくいきました。
ほとんどの(全部ではないのですが)ホイッスルのトラックは1度だけしか録音しませんでしたし、歌には2日しかかけていません。
エンジニアとプロデューサーから、有名な歌手がたった1曲録音するのに何週間もかかったと聞いて、勇気づけられました。
そうは言っても、私は自分の限界を(ホイッスルに関してさえも)自覚していますし、十分リラックスして、人前で歌えるようになれたらと思います。
ギターのマーティン・ダンレー(Martin Dunlea) とのデュオでの最初のコンサートはキルデア州キルデアで、次の3月9日です。
3月半ばにフランスへツアーに出かける前です。

多くのアイルランドの音楽家は自費製作でCDを作る方向になってきていると思うのですが、どう思われますか。

最初はとんでもないと思いました。
というのもこの方面のことは「プロ」に任せるという考え方に慣れていたのです。
レコーディングには大して手間はかかりません。
幸い自己資金でできたのですが、問題は「売ること」でした。
今のところ、アイルランド以外では、販売契約(distribution deal)も、ネットワークもありません。
アメリカの2つのレーベルがライセンスを取って、マスターを買い取ることに関心を示してくれています。
私はフルタイムで演奏活動をしているわけではありませんし、たとえアメリカでも90日間、ひとりでツアーする気はありません。
でも、デュオでならいいですが。
それでいくつかのレーベルにおいては、会計士としての仕事を進めながら、軸足を音楽に置くなどというのは難しいことなのです。
本当にそう思うし、お勧めしたいのですが、音楽家はできる限り自分自身で作品を持っておくべきです。
将来どんな大ヒットになるか誰にもわからないのです。
小さなレーベルで特許権使用料が少なくても、レコード会社が取る膨大な取り分がなければ、みんな自分の利益となるのです。

それでは最後に、一緒に活動しているマーティンのことを、あなたは明らかに音楽的にできることに限定しているデュオとして語っていらっしゃいますね。

もしマーティンと私が、マーティン・ヘイズとデニス・カヒル(Martin Hayes & Dennis Cahill)の魔法の一部でも手にすることができたら、あるいはイングランドのカレン・ツイードとイアン・カー(Karen Tweed & Ian Carr)のようになれたら、うれしいでしょう。
私たちのアレンジのいくつかは悪くないし、チャンスを与えてくれるcross-communityにアピールしていると思います。
本気で聞いてくださるお客様のために演奏したいと思います。
パブでの演奏などはだめです。
将来、私たちの音楽が聞いていただけて、喜んでいただけること、アメリカで演奏できることを願っています。

最後に、この機会に、私にインタビューをして、私のアルバムのレヴューを書いてくれたことに、お礼を申し上げたいと思います。
ウェブサイトを立ち上げ、ホイッスルの情報サイトChiff &Fipple Experienceを作ってくれたことにも。
世界中のホイッスルに夢中な人にも、それほどでもない人にとっても、すばらしい貢献をしてくださっていると思います。
ありがとうございました。

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