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ケルトの笛 インタビュー

ハリー・ブラッドレー(Harry Bradley)

(2014.3.10 TradConnectが投稿/View Blog)

※注釈:グラダム・キョールTG4とは
TG4はアイルランドの放送局。Gradam Ceoil TG4は毎年伝統音楽に与えられる最高の賞で、独立した審判員団が受賞者を選ぶ。コンテストではない。
Gradam Ceoil受賞者は賞金とJohn Collのデザインによる特製のトロフィーが与えられる。授賞式に伴うコンサートはテレビ放送される。

 

インタビュアー:
ハリー・ブラッドレーは長年にわたって伝統音楽に貢献してきました。
1970年代から80年代にベルファストで子供時代を過ごしましたが、その頃は伝統音楽をするのに今とは比べものにならないほど特別な決意が必要な時代でした。以来アイリッシュ音楽への思いは途切れることなく、様々な形で彼の伝統に対する創造的で実直な見方を支えてきました。

彼の作品は、4枚のソロアルバム、Paul O’Shaughnessy とのデュオのアルバム、そしてJesse Smith (フィドル)、John Blake(ギター、ピアノ、フルート)とのトリオで作った”The Tap Room Trio”というアルバムがあって、どれも見事なものです。

アルタンやほかの多くのすぐれたグループとツアーやレコ-ディングを重ねています。また”The Errant Elbow” というイリアンパイプスのブログをやっていて、 そこには200曲近い曲が集められていて、一つ一つに短いメモ、ヴァリエーション、セットにするときのヒント、コメントがついています。

ですから、彼がグラダム・キョールTG4の賞を受けたのも驚くべきことではありませんが、彼は「驚きました。自分が今までの受賞者たちと同じレベルにいるとは思えなかったのです。」と言っています。

グラダム・キョールTG4の賞はアイルランドで他に類を見ないものです。これは伝統音楽への貢献という視点からミュージシャンを顕彰するもので、商業的成功によるものではありません。TG4の代表Pádhraic Ó Ciardhaは「グラダム・キョールはユニークなもので、伝統音楽の多くのすぐれたミュージシャンを、生前に、またコンクールとは違った視点で顕彰しています。」と語っています。

ハリーはグラダムが大きな仕事をしてきたこと、多くのアイルランド人の大切な生き方に貢献してきたことをはっきりと認めています。

「グラダムの式典にそれがよく表われていると思います。それは好ましい動きです。アイリッシュ音楽に関わる人の多くは認められることを望んでいないと思います。真の喜びは演奏すること、音楽を楽しむことの中に存在するのですから。認められるのもうれしいことですが、演奏することが楽しいし、本当に素晴らしい音楽だから、私は今やっていることを続けていきたいのです。」

今年も多くの受賞者がおります。ほかの受賞者と共演したりコラボしたりしたことがあるかと聞いてみました。その中には、Bryan O’Leray、Chris Droney、Mick Moloney、Nan Tom Taimin de Búrca、や”Tunes from the Goodman Manuscripts”でグラダムの賞を取ったEmer Mayok、Mick O’Brien、Aoife Ni Bhriain のトリオがいます。

「私はMick O’Brien と Emer Mayock とは演奏したことがあります。Nan が歌うのを聞いたことはありましたが、Chris Droneyや Bryan O’Leary と共演したことはありません。ダブリンでグラダムのイベントが始まってから、Brienと明け方まで演奏したことがありました。彼は素晴らしいミュージシャンで、礼儀正しい若いアイルランド人です。彼のことは色々聞いていましたが、実際に会ってみて、期待を裏切ることはありませんでした。古い友達でケリー(アイルランド南西部の県)のパイプ吹きのLeonard Barryと一緒にInchicoreのパブ盛り上がりました。今までで一番楽しい夕べの一つです。」

ハリーの新しいソロアルバム“The First of May”は発表されたばかりで、評論家の高い評価を得ています。ほとんどすべてのレビューが、独特なスタイルに言及していますが、この点を彼に聞いてみましょう。

「それは息づかいの拍動によってアクセントをつける躍動的なスタイルのことだと思います。また、いい音で吹いて、フルートで大きな音を出すのがベルファスト流でした。1つのセッションにフルートが12本もあったりして、自分の音を聞くには大きな音を出さなければならなかったのですから。」

彼はベルファストのフルート奏者で歌手でもあるNoel Lenaghan に触発されてフルートを始めました。

「彼は優れたリズミカルな奏者であるばかりでなく(息継ぎによってもたらされるリズムが彼のフルートの魅力ですが)、ユーモアのセンスにあふれ、窓を揺らす程の大きな笑い声の持ち主です。彼は今も私に刺激を与えてくれます。最近は主にバグパイプを聞いています。最も影響を受けたのはたぶんSeamus Ennis です。彼の音楽の深さと知性は並外れたものです。John McKenna と Tom Morrison のフルートを聞くのは大好きですが、Sean Gavin や Dezi Wilkinson や Gary Hastings や Michael Clarkson のような新しい奏者も演奏意欲を駆り立ててくれます。」

インスピレーションも学びも過去の演奏家や名人からダイレクトに伝わって来た時代から、物事は移り変わってきました。私たちが自分を失い、音楽の心がどこにあるか忘れてしまうなんてことも起こりうるのでしょうか。

「私たちはアイルランド音楽を実体のあるものにしておかなくてはなりません。それにはよく練られた、非常に知的で美的な原理を含んでいますが、「なんでもあり」だと思いたがる人もいます。特に市場価値を高めたいと思っている人たちです。音楽は人間の文化だということ、人間の経験から生まれ、その経験と不可分な人間の文化だということ、そこから材料を奪い取るだけの過去の音楽の屍ではないということを忘れてはいけません。アイルランド音楽は私たちの民族の実体のある現実のものなのです。」

ハリーは、音楽が市場や薄っぺらな流行や今風の考えに迎合し始めると、途端にダメになってしまうと感じています。

「ダメになってしまった音楽も沢山ありますが、それについて話して時間を無駄にするつもりはありません。話す値打ちのある素晴らしい音楽がたくさんあります。Jesse Smith、Mick O’Grady、John Blake、Sean McKeon、Liam O’Connor、David Power、Jimmy Cananvan、Sean Gavin, それからコネマラのGannonという人。Mary Bergin、Alec Finn、偉大なTommy Peoples、RoscommonのCarty家 ドニゴールのCampbell家等々素晴らしいミュージシャン、出会えてよかったと思う方々です。彼らは自分がしていることを愛していて、それについて誰に対しても罪悪感を持つ必要のない心ある人々です。」

絶頂期の今、彼はPaddy Mills、Peter Horan、Ben Lennonらと演奏を楽しんでいます。またスライゴーやレイトリム、ロスコモンあたりの人達、この音楽の記憶をきちんと持っている人たちと一緒に演奏した日々のことを語ってくれました。

「それはある種の人々にとってはとても意味のあることなのです。そういう人たちのために演奏するのは大好きです。それとかJimmy Canavan がコネマラで歌うのを聞くとかね。」

ベルファストで過ごした青年時代、人々が危険を冒して市内で演奏していた頃のことを語ってくれました。

「私が育ったベルファストは今のベルファストとは全く違っていました。市の中心部は夜になってお店が閉まると、荒れ果てた無人地帯でした。それでも人々は町のパブに集まって演奏し、町の心臓に血液を送り続けたのです。時にはそれが危険を伴うこともありました。彼らが音楽を続けたことが重要だったのだと思います。危険を感じる環境でもあきらめたくはなかったのです。」

「文字通りの意味で、伝統音楽は創造的な知性とアイルランドの人々の喜び、喪失感、快活さという感覚を持っていると思います。それはマイノリティの音楽、社会的・文化的トラウマをもって我々に引き継がれてきた、搾取されてきた民族の音楽だったとも言えます。この点において、アイルランド音楽は抵抗音楽だと言えます。というのも、ますます非人間的になっていくこの世の中、人間を消費者としか見ず、文化を製品としかみなさないこの世の中において、このコアな伝統そのものが不可欠な人間的プロセスだからなのです。私たちを商業主義に売り渡す奴らに道理を教えてやるのはとても大切なことなのです。アイルランド文化のような土着の文化をそんなふうに見ることも、最近は多くなってきていますが、それは完全に誤解でばかげたことです。アイルランド音楽は人々の音楽です。それは人間的で、また心優しいものです。それは、例えばシャノン空港にある軍用機のようなものではないのです。クレアの文化はそれよりずっと素晴らしいものです。」

表彰式の一環として行われる4月12日のコンサートでは、ハリーは若い仲間や昔からの友達と共に舞台に上がります。共に歩んできた仲間とスポットライトを分かち合うのです。

「私は北のフルート奏者Brendan O’Hare、Tara Diamond、Davey Maguire、 Michael Clarksonと一緒にフルートのセットを一つやります。何年にもわたって私に刺激を与えてきた古い友達です。また、Jesse Smith、John Blake、Colm Gannonとも1セットします。いわば私のバンドThe Taproom Trioをパワーアップしたようなものです。楽しいでしょうね。その晩は、仲間や家族と楽しく過ごすつもりです。両親もベルファストからやってきます。両親が楽しんでくれることを期待しています。」

音楽を進め始めたばかりのBryan O’Leary などの若いミュージシャンも、同じステージに上ることになります。もし求められたら、ハリーは次の世代にどんなアドバイスをするのでしょうか。

「君たちを信頼しているよ。流行だろうが何だろうがそんなことは気にしないで、音楽の世界で自分がいいと思ったことを追い求め、そのために力をふるってほしい。知性と想像力を使ってほしい。アイルランドのことを思ってほしい。幸せに住める場所、まずそこに住む人々のことを考えてくれる素晴らしい場所、そこで教育された人々はそこで仕事を得るために教育される場所。アイルランドでは腹が立つことも批判したいこともあるでしょう。若い人々はアイルランドの政治制度についてひどいことを聞いて育ってきているでしょう。しかし否定的に考えていたら、身動きが取れなくなってしまいます。ですから私はより良いアイルランドをはっきりとイメージしたほうがいいと思うのです。そうすればやがてそれが実現します。それでみんな気ままに過ごして一緒に演奏して、私みたいな老いぼれにビールをおごってくれることもできるのです。少し時間がかかるでしょうが、私たちが頭を使い、自分たち自身のために声をあげるなら、必ず実現します。」

彼は授賞式の後のセッションに参加するのでしょうか。4月12日(授賞式)に向けて何か考えていることがあるのでしょうか。

「気の抜けた半分残ったシャンパンの瓶をもって、タキシードを着て、生ぬるいジャグジーで目覚めたいものです。それが私の夢です。たぶんグラダムの夜がその夜になるでしょう。」

今年の表彰式とグラダム・キオールTG4のコンサートは4月12日(土)にリムリックのULコンサートホールで開かれます。Páidi Ó Lionáird と Muireann Nie Amhlaoibhが司会をし、2014年の受賞者がそれぞれゲストを招いてステージに上がります。コンサートは録音され、4月20日、イースターサンデーの9時30分に放送されます。出演者も司会者も含めて、素晴らしいラインナップです。

ハリー・ブラッドレーのインタビュー記事に対するPaul O’Connerのコメント(2014年3月13日)

 

1:「私たちはアイルランド音楽を実体のあるものにしておかなくてはなりません。それにはよく練られた、非常に知的で美的な原理を含んでいますが、「なんでもあり」だと思いたがる人もいます。特に市場価値を高めたいと思っている人たちです。音楽は人間の文化だということ、人間の経験から生まれ、その経験と不可分な人間の文化だということ、そこから材料を奪い取るだけの過去の音楽の屍ではないということを忘れてはいけません。アイルランド音楽は私たちの民族の実体のある現実のものなのです。」

明らかに伝統音楽は「なんでもあり」ではないと言っています。言い換えると、正しい心構えの人だけがアイリッシュ音楽にかかわることができるということです。
彼は伝統音楽が、(彼の言葉から判断すると)いつか、どこかで商業利用され、商業的利益とメディアの関心のために利用されてしまうのではないかと恐れています。

音楽が人間の営みであるとあたりまえのことを言っているのは、音楽の背後に(存命の人も亡くなった方も含めて)彼が心に留める人がいると強調するためだろうと思います。音楽はこれらの人々の人生という文脈の中で一番よく理解される、あるいはそれ以外では十分理解されることはできない、これもまた事実です。
私が読むところ、彼はこれらの人々の業績が尊敬されることを願っています。(そして当然ですが、これらの人々の伝統を引き継ぐ人間の一人であることに誇りを持っています。)これにも完全に心から賛成します。しかし、その敬意の表し方に同意できないのです。彼は伝統音楽が「材料として奪いとられる」ことを望んでいません。この点で彼は過剰に保護的で、こういった文化活動の生命力にあふれた点を見逃していると思います。「奪い取る」とは、つまるところ、それぞれの世代が前の世代の生み出したものの中から受け継ぎたいものを取り、それを使って自分たちの時代の何か新しいものを作り出すということなのです。それがリスペクトという言葉で私たちが前の世代に負っていることだと思います。自分自身であること、後の世代が私たちを識別できるような私たち自身の文化を創り出すこと、過去の世代の人が彼らの文化を創り出してきたのと同じように自分たちの文化を創造することです。
これは私の意見において、受け入れられ得る最も賢明で継続可能な立場であり、人間というのは移ろいゆくものである以上この他の立場は愚かであるという我々の知識と経験に基づいています。

2:ハリーは音楽が市場や薄っぺらな流行や今風の考えに迎合し始めると、途端にダメになってしまうと感じています。
「ダメになってしまった音楽も沢山ありますが、それについて話して時間を無駄にするつもりはありません。話す値打ちのある素晴らしい音楽がたくさんあります。Jesse Smith、Mick O’Grady、John Blake、Sean McKeon、Liam O’Connor、David Power、Jimmy Cananvan、Sean Gavin, それからコネマラのGannon という人。Mary Bergin、Alec Finn、the Tommy Peoples、the Roscommon Carty’s ドニゴールの the Campbells 等々素晴らしいミュージシャン、出会えてよかったと思う方々です。彼らは自分がしていることを愛していて、それについて誰に対しても罪悪感を持つ必要のない心ある人々です。」

HBはここで2つの階層に分けて考えています。
自分たちがしていることを心から愛している心ある人々、つまり「立派な人たち」と、市場や流行に囚われて残念な音楽を作る「ダメな人たち」。
前者は自分たちの文化について罪悪感を持つことはないとHBは言っていますし、その点については完全に同意します。しかしそこから推論すると、残念な音楽を作っていると見なされる人々は、自分がしていることに罪悪感を持たねばならないということになります。誰に対して罪悪感を持つのですか?ひどい言い方です。伝統音楽から素材を取ることも実際的利益を求めることも許されない。もしそうするのなら、伝統的音楽文化を正しく守っている人に対して屈辱的な罪悪感を持たねばならないというのです。どうして違ったアプローチの仕方に同等の敬意を抱けないのでしょうか。

優れた音楽家のリストが途中で終わっているのも興味を引きます。まず、思いつくままに好きなミュージシャンを挙げたにしては異常に長いものです。
女性は一人だけで、私の知る限りでは、アイルランド以外に生活の場を持っている人はいません。自分の知っている範囲でこのリストに載っている人の音楽は大好きです。でも他の名前は上がっていませんが「残念な音楽」の対極としての「偉大な音楽」であることを思うと、ずいぶん大胆で挑発的なリストだと思います。

面白いことに、このDavid Power(今、Martin HayesとThe Masters of Traditional でツアー中)が何年か前にMary MacNamaraのアルバム”The Blackberry Blossom”のレビューを書いて、その中で「ホーンパイプ”The Golden Eagle”の最初の1小節半はBA,GbDGBDGB,DGBDでなければなりません。しかしMary MacNamaraを聞くと彼女はいつもBA,GgDGBDGB,DGBDとやっています。ですからこの部分は作曲した人が聞いてもらいたいと思った曲に好ましくない変化を引き起こしていると思うのです。」と言っています。
これは伝統を狭くとらえる極端な例で、私は賛成できません。HBがそこまで極端だとは言いませんが、我々が伝統をどう扱うべきかについての彼の考えには反対です。
私はより納得のできる、現実的な文化について論じていたいと思います。そこでは望む人は誰でも、どんな場所でも、どんな手段ででも、伝統音楽を演奏することができ、誰でも、自分が興味を持った伝統音楽に合うと思ったことなら何をしてもよく、商業的利益やメディアの注目も含めて、どんな目的であってもよく、それぞれの世代が自分たちの伝統を生み出す完全な自由が与えられており、(近年のアーカイブの発展によって大切に記録された十分な知識の中において)、そこでは、伝統音楽のミュージシャンが音楽の能力に恵まれていないけれど、聞くのは好きな人と共感することができ、文化を勝手に私物化しているとか伝統に対する冒涜だとか非難されることなく、伝統音楽について誰でも書きたいことを書くことができ(書いたことが間違っているかもしれないが)、伝統音楽が他のどの音楽とも同様の、決してそれ以上ではない、敬意と真摯な考慮を与えられるのです。

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