存在が大きかったゆえに、遠くに行ってしまったのに、今もそばにいる気がする。
吉田文夫さんは、私にとってそんな人でした。
吉田さんと出会ったのは90年代末、私が大学生だった頃です。
私のふた世代も上の吉田さんは、日本のヨーロッパ・トラッドの草分けのバンド「シ・フォーク」の大先輩ミュージシャンでありながら、かざらず威張らず誰にでも自然体で接する、表裏のない謙虚な方でした。
吉田さんは二つの点でパイオニア、開拓者でした。
ひとつは、我が国でまだヨーロッパのトラッド音楽が知られていなかった黎明期に、現地にわたり音楽を学んで、いち早く演奏活動を行なった最初の世代となったこと。
もうひとつは、輸入楽器が買いにくかった時代に、トラッド音楽の通信販売の「グレン・ミュージック」を通じて多くの人にトラッドを奏でる喜びを届けたこと。
これらは、今ほど世界が開けていなかった当時、簡単なことではなかったと思います。
実は、私の営む楽器店「ケルトの笛屋さん」のきっかけは、吉田さんが作ってくれました。
20代の頃、私は教室で生徒に販売するティン・ホイッスルを、吉田さんを通じて仕入れていたのです。
好きな音楽や楽器に囲まれて仕事ができたらどんなに幸せだろう。いつしか私はそんな夢を抱き、後ろ姿を追いかけていました。
やがて私の通販事業が軌道に乗って京都店を出店する計画ができた頃、闘病されていることを明かされました。
当時は深刻な病状ではなかったのかもしれせんが、きっとご自身の先を見越していたのでしょう。
グレン・ミュージックをたたむことを考えているようでした。
「京都の店ではこれまでの管楽器だけでなくトラッド音楽の商品を幅広く展開したい」と相談すると、ご自身のCDコレクションと在庫のほとんどを譲ってくださり、すべての仕入先をご紹介くださいました。
ですから、現在の弊社の仕入先の多くは、グレン・ミュージックから引き継いだものです。
吉田さんの協力がなければ、「ケルトの笛屋さん」は現在の姿にはなっていません。
音楽家として、商売人としての精神を吉田さんから多くを受け取ることができた私はとても幸運でした。しかしやがて時が経てば、吉田さんのことを知らない若い世代がこの音楽シーンを支えるようになります。そんな彼らに「こんなすごい人がいたんだよ!」と、吉田さんのことを記録と記憶に留めてゆきたい。吉田さんへのささやかな恩返しとして、追悼のホームページとこのビデオを製作しました。
以下のメッセージを読めば、どれほど多くの人から慕われ愛されていたのか、存在の大きさに気づくことができるでしょう。天国で、はにかんで「いえいえ、そんな大したものちゃいますよ」とおっしゃりながら、まんざらでもないお顔が目に浮かぶようです。
多くの人と分け隔てなく幅広い音楽性でトラッドを楽しむ吉田さん。
その音楽への向き合い方、人との謙虚な接し方は私を含む多くの若い世代に影響を与えました。
関西のトラッド演奏者が、世代を超えた音楽サークルのように結束が固いのは、吉田さんが上の世代にいてくださったおかげだと私は思っています。
吉田さんの、音楽への愛と精神が次の世代へと受け継がれてゆくことを願っています。
hatao
70年代、ブリティッシュロックに傾倒し、そのルーツであるブリテン諸島のトラディショナルミュージックに興味をもつ。
74年、初のイギリス、アイルランド旅行後、独学でボタンアコーディオンの演奏を始める。
85年、赤澤淳氏・原口トヨアキ氏らとSi-Folkを結成。精力的に演奏活動を始める。
90年代に入り、坂上真清氏や津山篤氏らトラッド系ミュージシャンともセッションを重ねる。
同時期、当時なかなか入手が難しかったアイルランド伝統楽器や音源、楽譜を扱う通販ショップ「グレンミュージック」を創設。
97年、徳島の北島町創生ホールでの「第1回北島トラディショナル・ナイト」にシフォークで出演、大成功をおさめる。
以後四半世紀にわたり、主催の小西昌幸氏と親交を深め,同イベントの顔となる。
また同時期、シフォーク名義で国内初と思われる、日本人によるブリテン諸島のトラディショナル音楽の音源(カセットテープ)を発表する。これは後にCD化される。
2010年、Si-Folk音源のCD化に携わったスタジオビートショップの水谷昌博氏らとともに、関西及び日本のケルト音楽シーンを牽引する一大プロジェクト、ケルトシットルケを立ち上げる。以後12年間ほぼ欠かすことなくコンサートとオムニバスCDをプロデュースし、後進の育成とケルト音楽界の発展に大きく寄与する。
同時に、インターネットラジオ「ケルトリップラジオ」を開設。ケルト音楽の魅力を、ご自身の所有する膨大な音源と豊富な知識を駆使して発信。多くの視聴者を魅了する。
2022年7月、惜しまれながら他界。
同年秋、遺作となった氏の最後のプロデュースアルバム「CELTSITTOLKE vol.7」とSi-Folkの遺された秘蔵音源がリリースされる。
吉田文夫さんとの想い出
自分の記憶の中で吉田さんと初めて会ったのは、年ははっきりしないのですが1989年か1990年に当時新宿のシアターPooで毎月第4土曜に開催されていたオールナイトセッションの時でした。
特に出演者が決まっているものではなく当日楽器を持ってきて交代でステージで演奏するというスタイルで、順番も適当なため出たい人は舞台袖の小さな楽屋部屋で待機していました。
まだ日本にアイリッシュパブが無かった頃の話です。
そこには日本在住のアイリッシュなどをやる外国人が多く集まっていて、ハープを始めたばかりの自分もよく行っていました。
その夜も次に出ようと楽屋で待機していた時に、知らないお兄さんがアコーディオンを持って入って来て「待っていたらいつまでたっても出られないので強引にでも行くしかない!」みたいな事を言ったを覚えています。
その人が若き日の吉田文夫さんでした。
中々鼻息の荒い人だな、と感じたのですが、確かにお金も出ないイベントにわざわざ関西から来ている訳だしそう思うのは当たり前かも。
ただその時他にどういう会話があったのか?またその後に吉田さんと何か話したのか? などはまったく覚えていません。
それでもいつの間にか吉田さんと時々会って一緒に演奏をする様になっていきました。
いったいどういう経緯があってそうなっていったのかは自分でも不思議なんですが、気がつけば1990年から2000年代初頭まで、自分が関西に行ったり東京のライブに吉田さんを呼んだりする様になっていました。
当時日本ではトラッドを演奏する人なんてほとんどいなかったので、それだけで何か同胞意識みたいなものを感じていたからかも知れません。
このシアターPooでの出会いは随分後になって一度吉田さんと話した事があるんですが、吉田さんからは実はその前にも1度会っていると言われました。
当時年に2回トラッド愛好者が集まり新宿の柏ホールという所で演奏の発表会をしていて、自分がその頃やっていたヴァーミリオンサンズのボーカルだった蝋山陽子さんや、知り合いの上野洋子さんなんかと何度か出演したのですが、そこに吉田さんも演奏に来た事があったらしく自分の演奏を聴いたそうです。(多分まだギターを弾いていた時)
ただ特に挨拶などはしていないためまったく記憶が無くて、でもまさか吉田さんの演奏をまったく覚えていないとも言えず「あーそうだったっけ、懐かしいなー」みたいな感じでお茶を濁した次第でした。
初めて2人で演奏したのは1990年に吉田さんの知り合いがやっていた西荻窪の飲み亭というお店で、吉田さんから一緒にやらないかという電話をもらったのをはっきり覚えています。
ブライアンボルーマーチ以外は何を演奏したか覚えていませんが、まだ自分のハープレパートーリーは10曲あるか無いかという程度だったかも知れません。
その後で特に印象深いものとしては、阪神淡路大震災の前年に初めて吉田さんとの演奏で関西に行った時にお宅に泊めてもらい、優しそうなお母様にもお会いして、布団に寝ながら吉田さんが持っていた86年Wカップ 伝説のブラジルvsフランスの試合を見せてもらった事。
吉田さんはフランスの10番プラティニが好きで、自分はブラジルの10番ジーコのファンだったので、勿論結果は知っているんですが大いに盛り上がりました。
お互いに海外のサッカーが好きだったのも親しくなった要因の1つだと思います。
思い出すのは、ヨーロッパチャンピオンズリーグ決勝戦の生中継を夜中に見ていた時、確かマンチェスターユナイテッドが逆転して優勝した凄い試合の後突然吉田さんから電話が来て「見た!凄かったね」「うん」と10秒ほどで電話を切った事がありました。(多分午前3時位)
吉田さんの1推しはFCバルセロナ、2推しがマンチェスターユナイテッドだったはず。
勿論メールはまだ無かった時の話です。
また英国ロック、プログレからトラッドへと聴いてきた音楽遍歴の流れもほぼ同じだったので、会えば話題が尽きず話も弾みました。
その頃でもう1つ思い出すのは、吉田さんのお宅に泊めてもらった翌1994年の大震災の時。
何度電話をしても繋がらず、数日経ってようやく連絡が取れて吉田さんとお母様の無事が確認出来た時の安ど感は今も忘れません。
後で聞いたら被害としてはお風呂の壁が半壊したという事、そしてグレンミュージック通販のお客さんに犠牲者が出たという事でした。
1990年代吉田さんに東京に来てもらった中では、中目黒にあった英国レストラン1066や築地本願寺近くの兎小屋という会場での自分のライブ、吉祥寺Kuu Kuuというお店でやった都内初の日本人によるアイリッシュライブ、下北沢にあった米山さんのお店ヴィレッジグリーンでのデュオライブ、小平中央公民館でのコンサートなどが頭に浮かびます。
それから丁度こちらに来ていた日と自分のザバダックとのレコーディング日が重なった時があり、見てもいい?と言われて、上野さんに確認を取ってから一緒にスタジオまで行った事もありました。
ザバダックの「遠い国の友達」のレコーディングの時、ブースには吉田さんがいたんですよ。
90年代は覚えているだけで3回、自分も吉田さんとの演奏で関西に行っています。
すでに忘れているライブもありますが1つ紹介すると、当時吉田さんがやっていたヨーロッパからアジアにかけての民族音楽のユニットで、シタールなどもいたヤバンジとのジョイントライブなんていうレアなものもありました。
また吉田さんの車で岡山まで演奏に行った事も。
何故覚えているかというと帰りに岡山から初めてのぞみに乗ったからなんですが、他にも大阪の繁華街にあったダブリナーズや京都のウッドノートなんかで演奏しています。
その頃の忘れられない出来事の1つとして、3回目に行った時に吉田さんが地元で最も安いビジネスホテルを予約してくれたんですが、実際行ってみると入り口からすでに何か薄気味悪い感じで、受付の人もホラー映画で出て来そうな体が不自由な感じの方が出てきて、部屋も壁中に朱色の布みたいのが張られていて、豪華な飾りのついた電灯があって、、ほとんど夜寝られませんでした。
多分元はラブホテルだったのかも知れませんが、後に吉田さんに「あそこは気持ち悪かったなぁー」と言うと「アレ今でもあるんよ」と笑いながら言ってました。
また他の演奏の用事で外人の演奏家と関西に行った時は、駅でもいいからセッションしようとアコーディオンをわざわざ持ってきて、構内で外国人達と輪になってケースに腰かけて演奏したりしました。
よく怒られなかったなぁと思いますが、(駅名は分かりませんが新大阪駅では無かったのは確実) 逆に言うとそんな事をしてまでも、楽器が出来る人と演奏したいという想いが強かったんだと思います。
演奏する機会も今からは想像出来ない位少なかったですし。
名古屋でもよく一緒に演奏していました。
カフェカレドニアでは開店1周年の時以来何度も共演しているし、写真が残っているスターアイズというお店でも2回位演奏しています。 カレドニア2Fの部屋に4~5人で雑魚寝した事もありました。
あとチラシが残っている小牧の教会でもやっています。
シ・フォークでも4人目のメンバーみたいな形で関西や名古屋、境港、地名を忘れましたが他の地方などでご一緒しました。
ただこれら結構な数一緒に演奏していたにも関わらず、90年代当時の写真はほとんど残っていません。
まだネットやSNSも無かったのでわざわざ写真を撮る、まして動画を撮影する、なんていう発想は皆無でした。
それでも幸運にも手元に残っている写真もあるので、抜粋して吉田さんへの追悼動画としてYouTubeにアップしています。
音楽はケルトシットルケVol.3で吉田さんと一緒に演奏したオリジナル曲。
吉田文夫さんを偲んで
ケルティックハープ 「ロバとステッキ / Donkey And Stick」 坂上真清
そしてまたいくつか手元に残っている当時のチラシ、フライヤー画像もあるので載せてもらっている様でしたら宜しければご覧下さい。
吉田さんはいつも東京に演奏に来た最終日には、シ・フォークのレコードを委託販売しているお店を回って売り上げの清算をしてから帰るというのがルーティーンでした。
当時はネット販売などという便利なものはありませんので。
吉田さんは結局自分名義のソロ作品を1枚も作りませんでしたが、実質的に吉田さんのソロアルバムと呼んで差し支えない80年代に制作されたシ・フォークの1st「Fairy Dinner」、2nd「Si-Folk」は時間が経てばたつほど輝きを増してきます。
自分にとってこの2枚は本当にフェイバリットな作品で、吉田さんとは長く友達付き合いをさせてもらいましたが、心の中では常にミュージシャンとしてのリスペクトをしていました。
その大きな要因がこの2枚の存在です。
今は誰でも簡単にCDを作ることが可能な時代ですが、あの頃自分でレコード(しかもLP)を作る事がどれだけエネルギーが必要だったかは、同じ時代にバンドをやっていた人間として想像に耐えません。
自身のコラムで、"1974年の初のイギリス、アイルランド旅行以降の10年間は他のことには関心を持たずトラッドの事ばかり考えていた" と書いていましたが、その長く長く強い想いが凝縮したピュアーな部分とドロドロした部分の相反するものが混ざり合って昇華した様な音世界が展開しています。
1人で2本のブズーキをかなり長時間多重録音しているパートなどを聴くと、いったいどうやってフレーズを考えて録ったんだろうと聴く度に驚かされます。
その辺の事も1度聞いた事があったんですが、当時自分も使っていた多重録音が出来るティアックの4トラックのカセットレコーダーで、よく音を重ねて試行錯誤していたと言っていました。(一緒に演奏する人がいなかったとも)
そうやってあの音世界を作っていったのかと納得がいったのを覚えています。
そして今の様なネットも無い時代は、作った後の販売自体も相当大変だったはずです。
宣伝の方法も中々無いし、何よりもまずレコードを置いてくれる店を探さなければなりません。
創世ホールのトラディショナルナイトの主催者である小西さんが人づてに聞いて、吉田さんにレコード購入希望の連絡をしたそうですが、そういう人は初めてだったと吉田さんは言っていました。
またこれは数年前ですが、今も倉庫にレコードはいっぱい残っていると少し笑いながら言ってたのを覚えています。
これはよく勝手に1人で考えていて吉田さんにも言わなかったのですが、もし吉田さんがその後に伝統的なアイリッシュ音楽のアコーディオン奏者の道を選択しないで、このレコードの様な他に類を見ない音楽を追及していたら、まったく違った吉田文夫というミュージシャンの歴史があったのかも? なんて思ってしまいます。
でもそうしていたら自分とも出会わなかったかもしれませんけど、、、 限定生産でもいいので80年代に吉田さんが心血注いで作ったシ・フォークの2枚を完全な形でどこかでCDにしてくれないでしょうか。
勿論素晴らしいジャケットもそのままで。
心から願っています。
2000年代中頃にはしばらく会わない時期もありましたが、吉田さんがケルトシットルケプロジェクトを始め、自分がハンドリオンというユニットをスタートしたあたりから再び会う機会が増えてきました。
ケルトシットルケのCDにも2回参加させてもらいましたし、神戸のレコ発ライブにも4回出演させてもらったり、ハンドリオンのレコーディングのために長年倉庫にしまっていたハーディガーディを引っ張り出して2曲参加してもらったり、徳島県北島町の創世ホールに吉田さんの車で何度も一緒に行って演奏したり。
その他に思いつくだけでも四ツ橋のフィドル倶楽部、京都フィールド、ハイファイカフェ、アイリッシュパブノーム、芦屋花鏡園など様々な場面が頭をよぎります。
吉田さんの車でレッドツェッペリンを聴きながら奈良に演奏に行った事もこの文章を書きながら思い出しました。
そんな時も2018年10月芦屋花鏡園でのスリーラビリンスのライブに吉田さんが来てくれたのが最後になりました。
ライブの後水谷さん夫妻と一緒に蕎麦屋さんへ行き、芦屋の駅まで吉田さんの車で送ってもらって普通に別れたのがそのまま永遠の別れになるなんて、、今でも信じられません。
もしコロナが無かったらもう1回位会えたかな? なんてたまに想像したりもします。
YouTubeにアップした追悼動画には、結果的に最後になった花鏡園での写真もラストに載せました。
今になって思うと、自分が関西によく行った目的の半分は吉田さんに会う事だった様な気がしてなりません。
そしてこの文章を書いていて改めて感じるのは、自分のケルティックハープ人生はスタートからずっと吉田さんと共に歩んでいたという事です。
今年3月久しぶりに吉田さんからメッセージが届きました。
内容はもう通販もやめたので預かってまだ残っている坂上君のCDを返したいという内容。
またそのメッセージ文の下に記載してあるCDの中から欲しいのがあれば進呈します、というもので、通販で扱っていたCDが結構な枚数載せられていました。
突然の事で驚きましたが、では自分のCDだけ送って下さいと伝え数日後CD数枚とケルトシットルケVol.6が2枚送られてきました。
今思うと自身の終活的なものだったのかもしれませんが、その時はまったくその事に気づきませんでした。
お礼の連絡をすると吉田さんからまたメッセージが来て、今も病気の治療が中々捗らないという旨の他に「坂上さんの新しいCDも楽しみにさせて頂きます。サッカー日本代表アジア予選超苦しみましたが何とか突破出来てほっとしています。。」という文面がありました。
でも結局はそれだけ楽しみにしていた来年のワールドカップ本大会を見る事もなく、選曲や曲順など思案していたケルトシットルケVol.7の完成を聴くこともなく、そして今作っているCDを真っ先に吉田さん聴いてもらいたかったのにそれも叶わず、、本当に神様は残酷な事をするとつくづく感じました。
最期にどうしても紹介したい曲があります。
今から20年前の2002年に当時制作していて、結局お蔵入りになった2枚目のソロCDをレコーディングしていました。
丁度その頃に吉田さんが確かシ・フォークのライブで東京に来たので、ハープとのデュオで1曲参加してもらったんです。(赤澤さんも別の曲に参加したので2人でスタジオに来てくれました)
長い付き合いの中で吉田さんと2人での音源はその1曲だけ。
しかし結局未発売になった為そのままになっていたのですが、今年20年目という事で、春頃から1曲ずつ残されている音源を公開し始めました。
そして6月29日に病状が深刻化している事を知らずに、以下のメッセージを吉田さんに送りました。
そのまま記載します。
「吉田さん
20年前にレコーディングして
結局未発表になってしまった音源を
今年20周年という事で順次公開しています。
今日吉田さんが参加したリールセットを公開しました。
懐かしい音源ですが良かったら聴いて下さい。」
2022/06/29 20:38
でも結局そのメッセージに既読はつきませんでした。
そして心配していた所に訃報が届きました。
デュオでレコーディングした唯一の曲を吉田さんは1度も聴くことなく旅立ってしまいました。
自分はどうしても吉田さんに聴いてもらいたかった。
そして感想を聞きたかった。
多分この事に関しては一生悔いが残りそうです。
吉田文夫・アコーディオン / 坂上真清・ケルティックハープ
「Drunken Tinker ~ Ivy Leaf ~ Wild Irishman」
関西では金子さんの提唱で、吉田さんを偲ぶ会が開催されるという事です。 生前にも吉田さんを囲む会が行われ、ネットでは嬉しそうな吉田さんの写真が見られたり、皆の前での最後の演奏になったアコーディオンを聴く事が出来ます。
この場を借りで両方を主宰してくださった金子さんには心から感謝したいと思います。
もしあの囲む会が無いまま吉田さんが亡くなっていたら、と思うと悔やんでも悔やみきれません。
そして年内には恒例のケルトシットルケVol.7のレコ発ライブも開催される事だと思います。
吉田さんはきっと偲ぶ会にもレコ発ライブにもその場に来てくれているはずです。
最期の大セッションの時には、アコーディオンを抱えて目を閉じながらいつものスタイルで一緒に演奏しているでしょう。
自分は参加出来ませんが皆さんの心が吉田さんに届くことをお祈りしています。
8月に自分のブログでも吉田さんへの追悼を書きました。
もし宜しければご覧下さい。
「追悼・吉田文夫さん」
2022. 9. 29
ケルティックハープ
坂上真清
初出「創世ホール通信/文化ジャーナル」2022年7月号、同8月号(北島町立図書館・創世ホール発行)
追悼★吉田文夫さん
アイルランド音楽演奏界の重鎮を偲ぶ
■日本におけるアイリッシュ音楽奏者の草分け・吉田文夫さんがお亡くなりになった。吉田さんは、創世ホールと大変深い関わりのある方であり、日本有数のボタン・アコーディオン奏者であり、日本におけるアイルランド音楽紹介のすぐれたオルガナイザー、プロデューサーだった。残念でならない。1997年秋に、当館が開始した《北島トラディショナル・ナイト》シリーズは、吉田文夫さんを抜きにして、到底語ることはできない。ここに生前の交流などを記録して、その業績とお人柄を偲ぼうと思う。
■吉田文夫さんは、1953年7月21日生まれ。兵庫県宝塚市に住んでおられた。日本におけるアイルランド~ケルト伝統(伝承)音楽の普及に多大な貢献を果たした。ここ数年は、がん闘病の中、可能な限り演奏会活動も行なっておられた。その温厚なお人柄から、多くの演奏家から慕われた。今年(2022年)7月22日に天国に旅立たれた。享年68。私より2歳上である。
■吉田文夫さんと初めて連絡を取ったのは、1990年代初めだった。私は趣味で作っているミニコミ『ハード・スタッフ』の関係で、関西パンクの音楽家達と交流がある。交流を深めた時期(直接会って知り合った時期)は幅があるが、1989年頃から90年代半ばにかけて、林直人氏(故人)、非常階段のJOJO広重氏や美川俊治氏、渚にての柴山伸二氏、元スーパーミルクの西村明氏、高山謙一氏(イディオット・オクロック~ツメタイイキノママ…)という方々と親しくなった。皆、知的な思索家の側面を持つ読書家でインテリの音楽家だった。面識を得たのはその時期だが、1970年代後半には、ミニコミを通じて私の存在はご存じだった。ミニコミを京都の《どらっぐすとぅあ》などに納品していたので、彼らは読んでくれていたのだ。
■そして、柴山伸二氏(大阪府羽曳野市)と西村明氏(滋賀県近江八幡市)には、1980年代終わりに面識を得て、ミニコミの特集(関西アンダーグラウンド・シーンの一断面)に執筆者として全面的に協力いただくことになった。そんなこともあって、お二人の家には何度か泊めてもらった。吉田文夫さんと氏のバンド、シ・フォークのことは西村明さんのご自宅でご教示を得た。LPを見せられて、連絡先をメモし、帰宅してから直接吉田さんに連絡して、送金し、入手した。吉田さんにはサインもしていただいた。この時にはまさか、数年後に私の手で吉田さんのグループを北島町に招くことになるとは夢にも思わなかった。ましてその後、今日まで(約30年間も)お付き合いすることになるなど、神様以外誰も知らぬことだった。
■私は、10代半ば(高校)の頃から英国のロックが好きで、特にジェスロ・タルというグループが好きだった。きちんと全部集めるようになるのは、これまた西村明さんのご教示(20周年ボックスに魅せられた)がきっかけなのだが、ジェスロ・タルには、英国伝統音楽(伝承音楽、トラディショナル・ミュージック、トラッドともいう)に根差した音楽性の漂う曲があり、それはアイルランドの伝統音楽のすぐ隣にあった(よく似た雰囲気、共通の要素があった)。また、ジェスロ・タルは、ある時期は、リズム隊がフェアポート・コンヴェンションのメンバーと重なっていたこともあり、自然とケルト~アイリッシュ音楽の領域にも関心が向かうことになった。
■アイルランドの伝統音楽に関心を持つきっかけは、各人様々だろうが、私の世代は、英国ロックが入り口になったケースが多い。坂上真清さん(ケルティック・ハープ演奏の第一人者)がそうだし、吉田文夫さんもそうだとおっしゃっていた。だから吉田さんは英国ロックにもお詳しく、ウィッシュボーン・アッシュの名盤「アーガス」なども聞き込んでおられた。
■1956年生まれの私は、1979年に北島町役場に就職し、保健福祉、農業、税務、住民課、選挙事務、広報広聴など地方行政の現場の様々な部署をまわった。そして、1993年6月、町に複合文化施設《北島町立図書館・創世ホール》ができて、同年8月の人事異動で、そこで仕事をすることになった(管轄は教育委員会、館は社会教育施設という位置付け)。施設管理と、催しの企画広報が仕事の内容である。音楽演奏会シリーズでは、徳島ギター協会の川竹道夫さんのお知恵や力を借りながら、《北島クラシカル・エレガンス》というシリーズ名で、タブラトゥーラ(&波多野睦美)、ダンスリー・ルネサンス合奏団、平井満美子+佐野健二、カテリーナ古楽合奏団などの古楽(アーリー・ミュージック)を中心に続けた。《北島クラシカル・エレガンス》シリーズは一定の予算を組んで、毎年2月頃に開催したが、小泉改革で全国的に地方財政が厳しくなった時期に、野坂惠子+小宮瑞代「伊福部昭の箏曲宇宙」(2003年2月、伊福部昭先生卒寿記念祭の一環)を最後に、打ち止めとなった。
■《北島トラディショナル・ナイト》は、1997年の秋に始めた。その事情を少し詳しく記しておく。普通、公立文化施設が何か催しを企画するときは、起案文書(伺い)を回す。だが、このシリーズの最初の企画書の起案文書を回したとき、総務課で決裁が下りなかった(途中で判を押してくれなかった人がいた)。当時、演奏会に使える町予算の残が少しあり、入場料収入と合わせたら何とかなるのではないかという発想で、進めようとした企画だった。例えば仮に、その催しが全体で30万円程度かかる事業だったとして、その内の20万円は予算にあるので、残り20万円をチケット販売で何とか補填して事業をします、という趣旨で伺い文書を作成したのだが、これは、リスクがあるとして認められなかったのだった。もしも仮に19万円分しかチケットが売れなかったら、残る1万円をどうするのか、職員が負担するのか、そんな事業は危険だから認めない、なぜ当初から30万円組んでおかなかったのか、という意見があり、決裁は下りなかったのである。
■それはそれで筋が通っているので、私は町のお金に頼ることはやめようと思った。だが催し自体を取りやめるわけにはいかない。腹を括って、出演料(旅費や宿泊費を含む)は全て入場料収入でやりきることにした。もちろん、民間で通常の催しをしている人には、赤字が出たら、ポケットマネーなりなんなりで補填するのは当たり前のことなのは、認識承知している。当然のことだ。だが、公立施設では、なかなかそうもいかないことも当然である。私も他人(行政機関で働く人)に奨励することはしない。
■この時に力になってくれたのが当時の直属の上司(館長)の小山建夫さんで、「赤字が出たら君が負担する気なのか。よし分かった。その時はわしも出してやる」と言って背中を押してくれたのだ。意気に感じるというか、男気のある方だったので、その人に恥をかかせるわけにはいかないという思いで、ますます頑張ろうと思い、腹をくくることになった。
■もう一人大きな存在が、徳島ギター協会会長の川竹道夫さんだ。川竹さんは、同志社大学のギター部を経て尚美音楽学園卒業。東京でクラシックの楽団に所属したり、音楽学校の講師や、映画音楽などの仕事をしていたプロの方で、1977年にご家庭の事情で徳島に帰郷。その時期既に、ダンスリー・ルネサンス合奏団やタブラトゥーラと普通に交流がある方だった。氏はエライ人で、1978年に、徳島市でダンスリー・ルネサンス合奏団の演奏会を実現しておられた(10年後に知り、驚愕したことをよく覚えている)。
■もともと私は、1988年に脱原発の市民グループの活動で、川竹道夫さんと親しくなったのだった。音楽の趣味で、よく似た時期から欧州の伝統音楽に二人の関心が向かったのだった。川竹さんがエストラーダという民族音楽のグループを作ろうとしていた頃、英国のフェアポート・コンヴェンションや、スティーライ・スパンなどのCDをお貸ししたこともある。
■川竹さんに相談して、演奏会へのお手伝いをお願いした。以来二十数年間、川竹ファミリーはずっとこの催しに家族ぐるみでご支援くださっている。CD売り場や受付の応援に、奥様やお嬢さんや生け花教室のお弟子さんが立ってくださっているのである。
■第1回北島トラディショナル・ナイトは、1997年11月13日「アイルランド音楽の夕べ/シ・フォーク・コンサート」として開催した。シ・フォークは、吉田文夫、赤沢淳、原口豊明(のちにトヨアキ)という編成である。
■この催しは、新聞記事などにも取り上げられて、さらにスターレコードの三宅店長(ワールドミュージック系全般の愛好家で、沖縄音楽にも詳しかった)が、FM徳島出演の橋渡しなどをして下さり、電波での展開もできた。来場者は予想を超える230人だった。シ・フォークの演奏会は成功し、吉田さんは「徳島は、何でこんなに熱いんですか」と驚かれた。以後、創世ホールの活動をとても気にかけ、応援して下さるようになった。
■また、特筆すべきこととして、この日の演奏会の音源を川竹道夫さんが、吉田さんに提案して、CD化して、吉田さんたちにプレゼントしたことがあげられる。限定私家版として、数枚作り関係者にのみ配布したのである。ジャケットの写真撮影者は、江富久雄さん(北島町・江富写真館)。CDケース裏面には、《企画監督=小西昌幸、録音技術=加藤明夫、編集制作=川竹道夫》のクレジットがある。この音源は後に、「シ・フォーク・ルーツ」という一般流通したCDに5曲使用された(1998年7月発売)。
■こうして、出演料に関して町の予算を頼らずに《北島トラディショナル・ナイト》を年一回やっていける道筋がついた。25年前のことだ。気を抜くと直ちに悪い実績となって跳ね返るので、毎回、死に物狂いで頑張った。
■吉田さんは、《北島トラディショナル・ナイト》の最多出演者だ。下に、その出演記録を掲載しておく。各欄左端の数字はシリーズの通算回数。 (1)1997年11月13日◎シ・フォーク「アイルランド音楽の夕べ」
(2)1998年11月6日◎ディングルズ・ヴュー「アイリッシュ・ハープの世界」*坂上真清〔さかうえますみ〕+吉田文夫+赤沢淳
(10)2006年10月29日◎シ・フォーク「アイルランド音楽の午後」
(15)2011年11月27日◎マックフィドルズ(+吉田文夫)「晩秋のケルト」
(19)2015年11月1日◎ケルトシットルケ・オールスターズ「てんこ盛りアイリッシュ音楽」*ココペリーナ、鞴座〔ふいござ〕、ディングルズ・ヴュー(創世メモリアル・坂上真清ユニット=坂上氏による最強選抜特別編成 坂上真清+吉田文夫+金子鉄心+さいとうともこ) (20)2016年11月22日◎マスカーズ「ケルトの歌、やすらぎの調べ」*高野陽子+kumi+吉田文夫+笠村温子+原口トヨアキ
■2022年7月1日、ダンスリー・ルネサンス合奏団の岡本一郎さんがお亡くなりになった。そして22日には吉田文夫さんが旅立たれた。岡本さんは兵庫県西宮市の人だった。兵庫県は、いや日本は、今年7月に、古楽界とアイルランド音楽界の重鎮を立て続けに失ったのである。
■2010年以降の吉田文夫さんの大きな功績として「ケルトシットルケ(CELTSITTOLKE)£というオムニバス盤(CD)の企画制作と、同名コンサートの連続開催が挙げられる。「ケルトシットルケ」は、関西風の脱力系ダジャレが入ったネーミングが絶妙だ。これはCD発売元(販売流通)の有限会社ビートショップの水谷昌博さんのパートナー、水谷文美〔フミ〕さんの命名と聞いている。「ケルトシットルケ」のオムニバス盤は、今のところ、スタジオ録音盤6枚(VOL.1~VOL.6)、ライヴ盤(「CELTSITTOLKE LIVE てんこもりJAM」)1枚が出ている。今秋、「ケルトシットルケVOL.7」が発売予定。
■ケルトシットルケ・コンサートは、2011年から毎年初夏(5月か6月)に神戸市の三宮にある神戸電子専門学校のホール(神戸ソニックホール)で開かれていた(2018年まで)。これは、ビートショップの水谷さんが同校の講師を務めておられたご縁で、学校側に上手に提案し、学生たちの舞台音響や照明技術の実践を経験実習させるという位置付けで、会場費などがかからないような活用をされていたと思う。舞台まわりの会場設営や、音響機材のセッティングなどが学生たちの実践研修として役に立つという考えである。演奏会の企画者側としても会場費等の面でメリットがり、専門学校~ホール側としても学生の実践学習という面でメリットがあるわけだ。こういうことは各地でもっともっと柔軟になされてよいと、私は思う。
■吉田さんと水谷さんのお二人のプロデュース力は、とても高いものがあった。関西地区において、まぎれもなく、豊かなアイリッシュ~ケルト音楽文化を提供する機会を大きくもたらした。断言しておくが、東京でもこの種のこと(幅広い音楽家の交流や発表の場の提供)は成されていない。だから彼らは、日本のために大きなお仕事をされたのだと私は考えている。
■コンサートは、2019年からは、西宮市甲東ホールで毎年秋(11月)に開かれるようになった。2020年もコロナに負けず、客席を少し減らして、開催していた。私はもちろん応援のために出かけた。
■資料としてケルトシットルケのCDの発売年月日と、同名演奏会の開催年月日を掲載しておく。
【ケルトシットルケ録音媒体=CD 2010年から】
◎ケルトシットルケVOL.1~関西ケルト/アイリッシュ・コンピレーションアルバム 2010年12月8日
◎ケルトシットルケVOL.2 2011年12月7日
◎ケルトシットルケ・ライヴ てんこもりJAM 2012年12月5日 *2011年5月11日と2012年5月13日に開催したライヴの音源を使用
◎ケルトシットルケVOL.3 ザ・ケルティック・ハーツ・クラブ・バンド 2013年6月17日 *このアルバムで初めて「ノース・アイル・タウン」(坂上真清氏が北島町に捧げた、軽快で美しい曲)が音源化された。
◎ケルトシットルケVOL.3 2015年6月17日
◎ケルトシットルケVOL.5 2017年6月21日
◎ケルトシットルケVOL.6 2019年11月6日
*全て制作=グレン・ミュージック、発売=㈲ビートショップ。VOL.7が2022年秋発売予定。
【ケルトシットルケ演奏会 2011年から 神戸ソニックホール、西宮市甲東ホール】
◎ 2011年5月15日 ケルトシットルケCD発売記念ライブ 神戸ソニックホール
◎ 2012年5月13日 ケルトシットルケ てんこもりジャムVOL.2 ソニックホール
◎ 2013年6月2日 ケルトシットルケ てんこもりジャムVOL.3 ソニックホール
◎ 2013年6月15日 ケルトシットルケ てんこもりジャムVOL.3 ソニックホール
◎ 2015年6月21日 ケルトシットルケ てんこもりジャム2015 ソニックホール
◎ 2016年6月26日 ケルトシットルケ てんこもりジャム2016 ソニックホール
◎ 2017年6月25日 ケルトシットルケ てんこもりJAM2017 ソニックホール
◎ 2018年6月23日 ケルトシットルケ てんこもりJAMファイナル ソニックホール
*神戸ソニックホールでの開催はこれが最後になった。翌年からは、西宮市甲東ホールが関心を示し、後を引き継ぐことになる。開催時期は秋に移行。
◎ 2019年11月10日 ケルトシットルケ VOL.6発売記念コンサート てんこもりセッション2019 西宮市甲東ホール
◎ 2020年11月8日 ケルトシットルケ てんこもりセッション2020 甲東ホール
◎ 2021年11月7日 ケルトシットルケ てんこもりセッション2021 甲東ホール
■以下、思いつくままに吉田さんとの思い出を綴っておく。
■1990年代中頃のことだが、関西の音楽家ユニオンが発行した冊子が町に送られてきていて、それにシ・フォークが掲載されていた。その冊子は、音楽家ユニオンが、関西の自治体に音楽の企画立案時の参考にして欲しいという意向で各自治体に向けて送付されたものだったのではないかと思う。その写真では吉田さんはブズーキか何かを手にしていたと思う。
■滋賀県高島市(当時は高島町だったかもしれない)でのザ・チーフタンズ(ザ・チーフテンズ)のコンサートに、川竹道夫さんご一家と一緒に出かけたとき、曲の合間に「この会場に、もしかしたら吉田文夫さんもいるかもしれないねー」などと、小さな声で雑談していたら、ひとつ前の席の人が振り向いて、それが吉田さんだった。私達は、大笑いした(演奏会場なので声をたてずに笑った)。情けないことだが、これが一体何年何月だったかが判然としない。招聘事務所であるプランクトンのHPなども調べて来日歴やツアー先の表なども見てみたのだが、どうもよく分からないのだ。
■吉田さんから、兄上が自費出版されたという詩集をお送りいただいたこともあった。正方形に近い、特殊な判型の本だった。自らの取り組む表現を大切にするご兄弟だったのだと思った。
■2012年9月15日に私はダンスリー・ルネサンス合奏団の30周年記念コンサートをみるために、徳島から出かけた(ダンスリーは二回北島町で公演しており、私は交流があった。ときどき演奏会の招待券をいただいた)。会場は、阪急西宮北口駅からほど近い、兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホールだった。吉田さんに事前に連絡すると氏は、西宮北口駅のすぐ近くのアイリッシュ・パブのことを教えてくださり、ダンスリーの演奏会の後出かけて合流したのだった。氏はそこで定期的に演奏をしていたのだ。
■その他にも、何かの用事で関西方面に出かけて神戸市内で宿泊するような折に、氏にあらかじめ連絡を取っておいて、どこかで合流し、注文していたアイルランド音楽のCDを買わせていただいたことがあった。吉田さんは、グレン・ミュージックというアイルランド等からの輸入楽器を扱う事務所を運営しておられて、アイルランド音楽の楽器やCDを扱っておられた。時々買わせていただいた。あるとき、イリアン・パイプスの音色に非常に興味が湧いていた頃、その楽器を中心にしたアルバムを見繕〔みつくろ〕って下さいとお願いしたら、ちゃんとご用意して下さった。
■北島トラディショナル・ナイト・シリーズでは、確か吉田さんに、駐車場整理係をお手伝いいただいたことが一度あった。彼は出演者ではなく、ローディ(運転手)として来ていたので、お願いしたのだ。たぶん坂上さんのユニット、ハンドリオンの時(2010年10月17日)だったのではないか。
■楽器の輸入で、ひんぱんにトラブルがあってというこぼれ話も、グレン・ミュージックのブログで披露しておられた。輸入したコンサーティーナの音階がおかしく、修復しようとしたがリードが完全に固定されていたので、空港便でイタリアに送り返したが、その送料等は戻ってこないことが多い、という趣旨のことをお書きになっている。北島町のコンサートではティン・ホイッスルをたくさん並べて販売したことがあった。また、シ・フォークのカセット・テープを販売したことも(シ・フォークⅢ)。50本だか100本だかを(追加)発注したんですよ、とおっしゃっていた。
■アイルランド音楽の演奏家は、とても気軽に、気の合う音楽家とセッションをしたり、ユニットを組むことがよくある。吉田さんは、スキップス(Skips)という歌(マウス・ミュージック)主体のユニットを組んでおられたことがある(ケルトシットルケVOL.3に収録)。吉田さん以外の3人は女性で、2015年のソニックホールでのコンサートのとき、曲間のMCで、吉田さんは、ほりおみわさんから「吉田さん、スキップできますか? 今ここでやって見せてくださいな」という趣旨のことを言われて、スキップをさせられていた。場内のいたるところで、くすくす笑いが発生して会場が非常になごみ、温かいものになったことは、言うまでもない。
■古い「創世ホール通信/文化ジャーナル」をみてみると、2003(平成15)年5月号に、通算百号記念のメッセージをいただいていた。この号には、小松崎健さんやサエキけんぞうさんや種村季弘さんから頂戴したメッセージを掲載している。吉田さんのメッセージを以下に掲載する。 【百号記念メッセージ◎小西さん、通信百号おめでとうございます。創世ホールで、北島トラディショナル・ナイトの第1回目、2回目に出演させていただきありがとうございました。こちら関西でも無名の私たちなのに、97年第1回目のライブ当日は、ホール満員のお客さんが来られていて大変驚きました。まだ世間にあまり知られていなかった、アイルランド音楽の催しを何としても成功させようと孤軍奮闘されている小西さんの情熱がこちらにも伝わってきて、私たち〈シ・フォーク〉にとっても節目になるようなコンサートを行なうことができたと思っています。7回目になる今年まで、ずっとこのシリーズを続けてくださっていることにも、愛好者としても頭が下がります。あれ以来、陰ながらずっと応援しております。また何かお役に立てる機会があれば嬉しく思います。★吉田文夫(ボタン・アコーディオン奏者)】
■シ・フォークの自主制作LPには、柴山伸二、須山久美子、津山篤、岡野太といった関西アンダーグラウンド・シーンの人たちがレコーディングのお手伝いをしている。紙幅の関係で詳しく書く余裕がないが、それらの人たちは、皆、後に海外で有名になったり、根強いファンを持つ音楽家だ。
■何年か前に、吉田さんがガンを発症されたと聞き、随分心配した。それでも吉田さんは、ケルトシットルケ・イベントには、ずっと参加されていた。抗がん剤治療で、身体がしんどいことがあるので、大きな催しを控えたときには、治療(抗がん剤投与)の時期を調整されていたようだ。
■最後にお会いしたのは、2021年11月7日(日)のケルトシットルケのときだった。吉田さんは、いつものように司会役として登場し、津山篤さんと長野友美さんのデュオのゲストとして、演奏された。催しの後、ロビーで挨拶すると、津山さんが「『ハード・スタッフ』知ってますよ、ソロで近い内に徳島に行きますよ」とおっしゃって私はうろたえた。吉田さんには元気でいてくださいね、としか話してないと思う。3人が並んだ写真を1枚だけ、撮影した。これまで同様、またいつでも会えると漠然と考えていたから、これが最後になるとは思いもよらなかったのだ。
■吉田さん、今年の《北島トラディショナル・ナイト》は、10月30日に《みわくのみわけん》(ほりおみわ+小松崎健)をお招きするんですよ。その告知資料などには、【この催しを、2022年7月22日にケルトの神々の世界に旅立たれた吉田文夫さんの魂に捧げる】と記す予定です。また、お会いしましょう。そのときまでさようなら。
2022年8月6日 脱稿
小西昌幸(元北島町立図書館・創世ホール館長)
吉田文夫さんに初めてお会いしたのは、もう四半世紀も前のこと。
93年に来日したチーフタンズのライブ映像を観て、アイルランド音楽に一目惚れした私は、自分の目指すべき音楽はそこにあると確信した。ところが、当時はインターネットも普及しておらず、アイルランド音楽を始めようにも手掛かりがほとんどなかった。
そんな中、大阪なんばに「アイリッシュパブ」なるものがあり、生演奏が聴けるらしいとの情報を得た。
私は取るものもとりあえず、そのパブへ向かった。
お店の片隅にちょうど4人ぐらいがすっぽり収まるセッションスペースがあって、4名のミュージシャンが演奏していた。
私が生まれて初めて生で聴いたアイルランド伝統音楽だった。
終了後、興奮してミュージシャンに駆け寄り、話しかけた。
物静かな面持ちで優しく応対してくれたのが、ほかならぬ吉田さんだった。
そして、「グレンミュージック通信」というカタログというか小冊子のような物を受け取った。
「おお、この中に私の今欲しいものが全てある!」
グレンミュージックで楽器を買い揃え、グレンミュージックで曲集を買い、グレンミュージックでオススメの音源を買って聴いて。
まさに私のアイリッシュの原点は、吉田さん=グレンミュージックだった。
そしてその十数年後、吉田さんが立ち上げたプロジェクト「ケルトシットルケ」で初めて共演する機会を得た。 その時の感動を今でも忘れない。
先日、吉田文夫さんプロデュースのコンピレーションアルバム「ケルトシットルケvol.7」に収録するセッション曲のレコーディングに行ってきた。
セッション曲のタイトルは、その名も「Si-Folk Set」。
まだ日本にアイリッシュミュージックの「ア」の字も存在しない時代から、先進的先鋭的な試みを駆使してこの異国の音楽に挑んだ伝説のグループ「Si-Folk」。その「Si-Folk」のチューンを再現しようというものだ。
私は音源を聴いて自分の耳を疑った。
そこには数ヶ月前に録音された吉田さんのボタンアコの演奏があった。それは、普段私たちが知っている穏やかで朴訥とした吉田さんの雰囲気とは正反対の、非常に力強いスピード感溢れる演奏で、まさに往時の「Si-Folk」の躍動感を彷彿とさせるものだった。
残念ながらアルバムの完成を待たずに吉田さんは旅立たれてしまったが、亡くなる数日前までエンジニアの水谷さんにアルバムの曲並びのことなどを電話で指示していたそうだ。
なんという情熱、音楽にかける熱量の多さだろう。
全身を癌に蝕まれ息も絶え絶えなはずなのに、なおも止むことのないアイルランド(ケルト)音楽への深い愛情と使命感。
そして、最後の最後に魂を絞り出すような熱い演奏を私たちに遺してくれた。
ああ、もっともっと吉田さんと音楽の話をしたかった。もっともっと吉田さんとセッションしたかった。
ああ、もっともっと吉田さんと一緒にコンサートをしたかった。
でも、もうそれは叶わない。
せめて、この偉大な先人とほんの僅かでも同じ時代を共に生きることができたことに感謝しよう。
吉田さん今まで本当にありがとう。
あなたと共に過ごした時間は、私の一生の宝です。
ありがとう。
金子 鉄心
吉田さんに初めてお会いしたのは・・・2008年ごろでしょうか、今泉さんからの紹介でした。
初めてお会いした吉田さんは、やんわりとやさしい雰囲気を漂わせ、でもがっつり芯があるって感じで・・・「ケルトの妖精って、きっとこんな風貌なんだろうな・・」と思ったものです。
大切なSi-Forkのアルバムの再販をお手伝いすることになって以来、ケルト音楽に携わるライブ、「CELTSITTOLKE」CDのリリース、ケルトに関するうんちくを語る番組「Celtrip Radio」など、ほんとにいろんな事をご一緒させていただき、ホンマ楽しかったです!
振り返るといろんな想いがありすぎて、うまく言葉にまとまりません。
なので、最後に一言。
「吉田さん、いままで本当にお疲れさまでした!いつかそちらの世界へ行ったら、また、一緒に遊んでください!!それまで、ゆっくり休んで鋭気を養ってくださいませ!!どうもありがとうございました!!!」
会社有限会社ビートショップ
水谷昌博/水谷文美
吉田さんと最初にお会いしたのは所属していたゴスペルクワイアを脱退して、アイルランド音楽に転向した2004年頃のアイリッシュキャンプだったと思います。実はこう見えて、私は人見知りが激しいので当時は憧れのレジェンドに声をかける勇気はありませんでした。
吉田さんが長年パーソナリティを務めてらっしゃったネットラジオの【ケルトリップラジオ】は吉田さんのケルト音楽への造詣の深さとリスペクト、計り知れない情熱を感じ、どれだけ何度も聞いたことでしょうか。今も吉田さんの存在を感じたくてたまに聞いていると涙があふれてきます。
そんな吉田さんからケルトシットルケCDにお声かけ頂いたときは、本当に飛び上がるほど嬉しかったのを覚えています。
そして2014年頃からは8年間ほど、ハープ奏者のkumさんと共にケルト音楽ユニット【マスカーズ】でご一緒させて頂く事になり、アイリッシュパブ・カプリシカの定例ライブをはじめたくさんのコンサートをご一緒させて頂ける機会に恵まれました。アイルランド音楽会の憧れのレジェンドが身近になるにつれ、吉田さんの違った一面を垣間見させても頂けました。
そこはかとなくボケてみたり、シュールなギャグを飛ばされたり、お笑いがお好きだったり、おちゃめな可愛らしい一面も吉田さんの魅力のひとつだったと思います。また自虐的な持ちネタが多いこと、笑山や自然や旅がお好きだったのは、私と似ているところでした。
きっと学生時代の吉田さんに出会っていたら惚れていたかもしれません。実は相当やんちゃでとんがっていたという若かりし頃の吉田さん。あるとき、吉田さんが20代の頃のスコットランドヘブリディーズ諸島のスカイ島での写真を送って下さいました。私も旅した大好きな民謡の宝庫の島。長髪でジーパン姿のキャロルキングみたいな吉田さん。
吉田文夫さんは熱い情熱を内に秘めた、孤高の旅人音楽家だったように思います。
ほんとに有り難うございました。長い闘病生活、めちゃしんどかったですよね。最後に電話でお話してくれた約束、わすれません。またあちらの世界でスロンチャできるまで、ゆっくり休んでてくださいね。
限りない感謝と敬愛を込めて
2022年8月24日
高野陽子
知り合ってから25年以上、お別れの時が来るなんて想像出来ないほど、いつも当たり前に居てくれる存在でした。
吉田さんとご一緒させていただいた、ひとつひとつを思い起こしています。
マーフィーズ
ダブリナーズ
ケルトシットルケ
北島町 トラディショナルナイト
川口基督教会 英国とケルト
カプリシカ
様々なミュージシャンの方と出会わせ、繋げて下さったことに 感謝の気持ちしかありません。
膨大な知識量にそぐわないその優しい雰囲気はいつも私を和ませて下さっていました。
優しいお人柄の中に強い熱い心をお持ちだったこと、絶妙なボケ、目を閉じてる又は伏せている演奏姿、これからも私の心に在り続けるでしょう。
ありがとう吉田さん。
ほんの一部ですが、私も引き継いでいきますからね。
温子
アイリッシュ音楽を始めた頃から、本当に優しく接してくださり、ありがとうございました。
まだまだアイリッシュ歴の浅い時から、何度も一緒に演奏させてもらい、たくさんの刺激を頂きました。その時の時間があって、今のわたしがいるように思います。
吉田さんのアコーディオン、コンサーティーナ、歌のファンであることはもちろんですが、時々おっしゃる親父ギャグや1人ツッコミもかなり好きでした。
吉田さんの握るお寿司も美味しかったです。
私がコンサーティーナを始めたのが遅かったので、直接レッスンを受けれなかったのが大変心残りです。
フィドルもコンサーティーナも、吉田さんに取り寄せてもらったアコーディオンも、ずっと演奏していきたいと思います。
さいとうともこ
ラインは残酷ですね。
トーク相手がいません の表示。
吉田さんがもうこちら側にはおられないなんて、まだ信じられません。
今でもひょこっとあの笑顔を見せてくださるような、そんな気がしてなりません。
演奏ご一緒させていただくようになったのは、一重に吉田さんの優しさのおかげでした。
お互いマイナーチューンが好きなんだよね、といつも話して。
吉田さんとハーパーズカフェとでご一緒したり、グレンクロス、マスカーズ、また吉田さんとのデュオ、赤澤さん、原口さんや温子さん、井上さんとの演奏...
今から考えたらなんて貴重な時間だったんでしょう。
カプリシカで、サッカーの大事な試合生中継を横目に観ながら演奏されていたり、サッカーも大好きでいらっしゃいましたよね。
スカイ島に20歳の頃行ったんだ、いつかマスカーズ皆でスカイ島に行きましょう、と。
吉田さん、陽子さん、マスカーズで行きたかったですね。
吉田さんのお人柄が音に顕れる演奏、本当に好きで、伴奏者冥利につきました。
お亡くなりになる数日前、電話で最後までユーモアを忘れず、ご自身お辛いのに、私のことまでお気遣いくださった吉田さん。
翌日の夜、お誕生日お祝いメッセージをラインでお送りしました。
「吉田さん、こんばんは。
ハッピーバースデイ
ずーっと尊敬しています。 まだハープを始めた頃から、演奏をご一緒できるようになるなんて、夢のようでした✨ いつもユーモアを忘れない、でもマイナーチューンが好きな吉田さん。 ありがとうございました。 またお会いしましょう!」 誕生日夜にお送りしたラインはついに既読にはなりませんでした... 今頃はあちらで、思う存分演奏、楽しんでおられるでしょうか。 ご冥福をお祈りいたします... 吉田さんがマスカーズラインで内緒だよ、と見せてくださったお若い頃の素敵な秘蔵ショット、奥様の裕子さんの許可をいただいたので、ご覧ください。
kumi
未だに亡くなられたことを信じられないでいるのですが…
吉田さんと出会ったきっかけは何だったのか、30年以上前のことなので記憶が定かではないけれど、紗らせん楽団、Trefoil、そしてHarper's Cafeと、何度も一緒に演奏させていただいたことは忘れられない大切な思い出です。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りしています。
おのだかずこ
「吉田さんと同じステージに立てた事は僕にとって生涯の宝です。すべてに心から感謝申し上げます。昨年の秋、甲山を歩きながらNoel Hillの素晴らしさを熱っぽく語ってくれたこと、良き思い出です。」
ギター/ガラ
「ケルトシットルケという長年続いてきた素敵な舞台でご一緒させていただく機会を頂いたこと、誇りに思います。吉田さんの音楽へのリスペクトを胸に、音楽への感謝と共に歩んでいきたいと思います。」
ドラム/riki
「私がご一緒できた時間は短かったですが、吉田さんから忘れられない大事な気付きと歌うキッカケを頂きました。これからもケルトリップラジオを聴いて吉田さんの音楽に対する愛情を受け取り続けたいです。ありがとうございました。」
フルート/アッコ
「思えばケルトシットルケのCDを手に取った時からセッションの存在、関西のプレイヤーの方々を知ることができました。アイリッシュ音楽にこんなに深く長く付き合う事ができるようになったのも吉田さんのおかげです。素晴らしい音楽、そして素敵な人達に出逢わせていただき本当に感謝です。 ものすごく余談なのですが、いつかのセッションで私が写真撮っていると「僕目瞑ってばっかりでしょ」と笑っておられて。いつかバシッと吉田さんのキメ写真撮りたいと思ってる時に甲山でいい写真が撮れ、そしてそれをプロフィールに使ってくださったのがとても嬉しかったです。」
フィドル/Reno
アイリッシュバンド コールタです。
生前、吉田さんにはメンバー全員が非常にお世話になりました。
各メンバーの思い出をお伝えします。
ケルトシットルケVol.5と、別バンドとしてVol.6のプロジェクトにも参加し、貴重な経験をさせていただきました。 セッションにもほとんど参加せず、出不精で引っ込み思案な私には、「Celtrip Radio」でたくさんの素敵なチューンや知識が得られることがとてもありがたかったです。
ラジオでの穏やかな語りや、シットルケライブでの金子鉄心さんとのほっこりしたMCのファンでした。
心より哀悼の意を捧げます。
フルート/ティンホイッスル 井上 彩
録音の時やセッションで曲出しした時に「アレよかったよ〜」と吉田さんに褒めて下さる事が多くてそれがすごく嬉しくて嬉しくて。優しい柔らかい雰囲気、そして時々飛び出すおもしろ一言が大好きでした。
虹の橋の向こうでもまた是非一緒に弾きましょう。
フィドル 三津谷 梨乃
バンドとしてはケルトシットルケVol.5及びライブ 、また、個人として2018年のケルトシットルケライブの全体セッションにもお声がけいただき、貴重な経験を積ませていただきました。
全体セッションのリハーサル時、吉田さんが繰り返し回数を決めるなど進行され、その過程で出演者全員の意識が自然と吉田さんに集まり、一体感のあるステージになっていく、そういった感覚があったのをよく覚えています。
また、当時、ケルトシットルケのレコーディングスタジオ ビートショップを訪れていたところ、ちょうど吉田さんも来られており「今からどこそこでセッションあるけど、来る?」と言われ、そのまま吉田さんの車に乗せていただいてセッション会場へ連れて行ってくださいました。車中では昔良く聴いていたバンドの話などをしていただき、気さくに接していただいてありがたかったです。
吉田さんから依頼や相談された事のうち、私の力量不足などで期待に応えられなかった事もあり、後悔もあります。セッションの事、セットの組み方、もっといろいろ聞いておけば良かったな、と思います。
吉田さんの組むセッション曲のセットがとても好きでした。
安らかにおやすみください。
ギター/ブズーキ 五十嵐 勇太
普段ポップス、ジャズの世界でピアノを弾いている私が、アイリッシュ音楽とバウロンに強く惹かれ右も左も分からない中優しく手を差し伸べてくださいました。
吉田さんの様々な活動の中でも、優しい語り口調で貴重なエピソードが豊富な「Celtrip Radio」が好きで、吉田さんとビートショップ水谷さんに許可を頂き、私が不定期開催しているパズルカフェイベントの店内で流させていただいておりました。
「一度カフェにお邪魔したいなあ」と仰っていただいておりましたが、近年はコロナで開催出来ず、、一度カウンター越しにゆっくりとコーヒーを飲みながら色々とお話しをお伺いしたかったと残念でなりません。
これからもRadio聞き続けていきます、吉田さんありがとうございました。
バウロン 浜崎 祐吏
僕が吉田さんと最初に出会ったのは、音楽イベントに吉田さんが出店されていたときだったと思います。その後、特に密に関わらせて頂いたのは、夏に滋賀で開催されていたアイリッシュキャンプでのことでした。音楽も全くやったことのなかった自分にとって、生演奏でダンスを踊ったり、夜通しセッションをしたりする文化はとても衝撃的でした。ほとんど曲にも入れずただ一緒に座っているだけでしたが、そんな自分にも分け隔てなく親切に接して頂けたことを覚えています。
その後、同じようなアイルランド音楽を始めたばかりのメンバーと一緒にComhalta(コールタ)というバンドを組んで演奏活動もするようになっていた頃、ご縁があってケルトシットルケのライブに出演者として呼んで頂いたことは、一生の宝物です。メンバーともども、「大変なことになった」と慌てつつ、「でもお話しを頂いたからにはやろう」と気を引き締めてライブに臨んだことを覚えています。
そこでの大セッションが、初めてしっかりと吉田さんと一緒に演奏できた瞬間だったように思います。
その後、本当にありがたいことにケルトシットルケvol.5のCD制作にも関わらせていただき、レコ発ライブも参加させていただきました。
今は自分は仕事で関東に引っ越してしまい、ここ5年ほどお会いする機会はなかったのですが、Facebookで金子鉄心先生の奇妙な夢の投稿を見たとき、妙な胸騒ぎを覚えました。
闘病されていること、お体の具合があまり良くないことも存じ上げておらず、「きっと、関西に戻ってきたときはまたお会いできる」と軽い気持ちで考えておりました。今思えば、もう少し無理してでもセッションや、ケルトシットルケのライブに足を運んでおけば良かったと後悔しております。
楽器も触ったことのない自分が今も細々とですが音楽を続けられているのは、吉田さんが作り、育んで下さった関西アイルランド音楽の土壌があったからです。
叶うなら、またアイリッシュキャンプで一緒に楽器を弾かせていただきたかったですが、吉田さんが灯した灯を絶やさぬよう、これからもアイルランド音楽を続けて、コミュニティを盛り上げていきたいと思っています。
心より、ご冥福をお祈りします。
出会ってくださり、ありがとうございました。
許斐 英明
どうかこの日が来ませんように
祈り続けた日々
彼は山へ行った あの日 彼の母親が言った言葉通り
「息子は山へ行きました」
それで誰かが言い始めた
「行ったのなら帰ってくるものでは無いのか」
全ての人の希望は彼が山から帰ってくる
その日がやってくる事
指先から溢れ出る音楽は周り中を魅了し
控えめな言葉は皆を励まし続けた
谷から谷へと渡っていく彼の旅の途中
背中を見る
リュックは楽器でパンパンに膨れ上がっている
楽器が一つ、二つ、とマジックのように取り出されたその奥には
愛情がたっぷり入っている
彼は惜しげもなくそれを分け与え続けた
リュックを置いた
さらに高みへと登り続けるために
愛はここにある
ここにあるので大丈夫だよ
もう少し
高いところまで
先に行くね
リュックは置いて行くから大丈夫だよ
少しだけ先に行くね
だからそんな風に目を見張らないで
グラスは用意しておくから
追いついたら
いつものように
乾杯!と言って
相変わらずの健脚だな
ちょっと速すぎなんじゃ無いかと
笑いかけておくれ
谷と山と音の人
振り向くことなく山頂を目指す
その姿と向き合うために
新しいつながり方を模索しよう
私たちは
音を紡ぎ続ける
私たちも
それがあなたとの
これからもずっと続く
ずっと繋がる
唯一の方法だと
皆が知っているから
沢村淳子
1994年、3月6日、東京・代々木の自宅にて。吉田文夫さんが、ふらりと自宅を訪ねてきてくれるのは、いつも飛び上がらんばかりのひとときでした。あの晩のことは、今もくっきり心に浮かび上がってきます。これからも鮮やかに輝き続けることでしょう。
同時代にトラディショナル音楽、旅、山、映画、スポーツ、談笑のひとときを共有できたことをとても嬉しく誇りに思っております。
これまで吉田文夫さんから頂いた恩情と交情に深く感謝いたします。
吉田文夫さんの愛したトラディショナル音楽・伝承歌への探求と愛をこれからも深め、少しでも成長し、歩み続けられればと、願っております。
吉田文夫さん、どうも本当にありがとうございました。
竹内 篤
吉田さんの悲報をブログに報告しました。
お相手は、ご主人の仕事の関係で私の住む地元九州に赴任された方
彼女は神戸出身でケルトシットルケはもとより吉田さんのライブは何度も経験されてたようです。
ケルト音楽をキッカケに何度かやり取りさせて頂きました。
しかし重い病を患っておられ、ブログ内容も段々病気の事が増えてきました。
記憶が曖昧ですが吉田さんを知ったのはトラッド通販店タムボリンのレコードリスト、
恐らく日本人初のトラッドでしょうか
年賀状を頂いていたのでタムボリン関係でお合いした事があったのでしょうか
ハッキリ覚えているのは‘90年頃難波でシーフォークのライブ
運良く打ち上げの参加させて頂き、フランスのマリコルヌの話や
思い出波止場は日本のfaustだと力説されてたのを覚えてます
5年ほど前はティンホイッスルF管を購入させていただきました
―彼女のブログは入院先での1月が最後、
返事はありません
Tsutsumi
21年前、戎橋脇の企業広報施設に勤務していた私は趣味を活かしてワールドミュージックのシリーズコンサートを企画、日本のアイリッシュミュージシャンを引き連れて出演してくださったのが吉田さん。アイリッシュの魅力に引きずり込まれた私は、酒類営業の合間にマーフィーズに立ち寄り、ゆるゆるセッションなど色々な場面でお世話になることに。
最後にお会いしたのは4/23の六甲道のレッスン。体調のすぐれない中、辛抱強くご指導下さった吉田さん。頂いた34枚の運指譜は私の財産です。
栃内三男
フィドル倶楽部のとまとです。
吉田さんに寄せて、何をメッセージさせてもらうのが一番なのか?
考えを巡らせると
ケルトシットルケのアルバムになる。
ビジュアルで関わらせてもらいました。
吉田さんは、この妖精です。
全然似てない。。。あくまでも魂のイメージですのであしからず。
第二弾は猫になってもらいました。
しかし、吉田さんは演奏中殆ど目を閉じてらっしゃる。。。
〜これも似てない?
かろうじて、帽子が象徴的かも。
初めてお目にかかったときから、ず〜っとなんですけど
床から、1㎝ほど浮いてらっしゃるのでは?
異次元の住人なのかも、な〜んて。
声は更に 異次元に繋がってるような気がする。
ネットラジオにおける 語り口調、声のトーンはとても落ち着くのです。
不思議な波動で癒されています。
今でも。
ネットラジオの下でぴょんぴょん跳ねている妖精が
吉田さんの分身にみたいで クスッとなる。
しかるべき世界に戻って行かれたのかな?
な〜んてね。
これからも、ラジオ継続して下さいね。 ありがとう♡
フィドル倶楽部 とまと
中国地方なので、なかなか吉田さんとお会いすることはありませんでしたが、私が始めた頃は特に周りでアイリッシュをやっている人がおらず、楽器の購入など、グレンミュージックにはお世話になりました。
やがて吉田さんの存在をしっかりと知るようになり、そんななか、高島でのアイリッシュキャンプで同室となってとても光栄でした。
色々な話を聞かせていただきました。
穏やかな人柄ながら、si-folk時代のことを、『誰もやっていないから、そりゃあ気持ちよかったよー』という言葉がとても印象的でした。
今はこんなに演奏人口が増えました。
そちらで、天上のセッションを楽しんでください。
山内 陣(岡山県 イーリアンパイプス)
アイリッシュ音楽界のレジェンドで2015年よりケルトシットルケの舞台でお世話になった吉田文夫さん。
何もわからない僕にアイリッシュ音楽とは、舞台での立ち居振る舞い、そしてミュージシャンだらけの中でぽつんとひとりでいる事が多かった僕にいつも話しかけてきてくださり舞台上で踊りやすい環境を作ってくださった吉田さん。
ここ何年も大変だった事はお聞きしていましたが、それでも最後は「でも僕はまだまだ頑張りますよ!また僕の演奏で送ってくださいね。」と逆にエールを送ってくださいました。
昨年、ワンマンそろそろ演りましょう!っとのことで同じくアイリッシュ音楽界のレジェンド原口トヨアキさんと一緒に撮った写真が本当に家宝になってしまいました。
吉田さんからいただいた最期のメールです。
↓
ケルトシットルケがこんなに続けられているのも吉野さんのお力が大きいと思っています。自分の伴奏で踊って頂けると嬉しいので、何とか頑張って実現させたいと願っています!頑張ります!!
いつお誘いいただいても大丈夫なように準備していますよ!!
吉田さん、大変だったですよね。しんどかったですよね。少しゆっくりしてくださいね。
また一緒に演りましょうね!!
ありがとうございました。
アイリッシュタップ ダンサー 吉野 寧浩