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ケルトの笛 インタビュー

マイク・ラファティー Mike Rafferty

※ このインタビューは、ホームページ「A Guide to the Irish Flute」より、著作権保有者のBrad Hurley氏の許可を得て日本語翻訳し、公開しています。翻訳:村上亮子さん
 

はじめに

残念なことですが、マイク・ラファティーは2011年9月12日夜に他界しました。

1.2006年1月、マイク・ラファティーの長年の弟子、レスル・ハーカー Lesl Harkerが「マイク・ラファティーの300曲」という、マイクの演奏を書き取った曲集を出しています。
収録されている曲はレスルの練習用テープから書き取ったもので、その計画はマイクにも認められ、曲のメモも載っています。詳細や注文についてはこちらのサイトを見てください。

2.マイクの弟子の1人、リンダ・メイソン・フッドLinda Mason Hoodは、マイクのアイリッシュフルート教育法について有益な記事を書いています。
リンダのブログで読むことが出来ます。


 マイク・ラファティーのインタビュー このインタビューは2002年7月にポール・ウェルズ Paul Wellsとマイク・ケイシー Mike Caseyのふたりによって行われた。以下は2人によるインタビューについての紹介である。

 

出典 A Guide to the Irish Flute


 『マイク・ラファティーはアイルランド、東ゴールウェイの優れたフルート奏者で、古い叙情的な流れるような演奏スタイルを特徴としている。1926年生まれで、多くのフルートやフィドルの奏者を生み出した地域の中心、バリナキル教区のLarragaという村の出身である。

 マイクは、フルートとバグパイプを操る父親トム・バレル・ラファティー Tom “Barrel” Rafferty(barrelは樽という意味のニックネーム)、近所に住むトム・ブロドリック Tom Broderick、ジャック・ コーグラン Jack Coughlanから音楽の手ほどきを受けた。また名高いバリナキル・ケイリーバンド Ballinakill Ceili Bandの演奏も、ラジオや78回転レコードで聞いていた。このバンドにはフルートのステファン・マロニー Stephen Moloneyとトミー・ウィーラン Tommy Whelanがいた。

 1949年にマイクは合衆国へ移民し、以来そこに住んでいる。4半世紀にわたって全米のコンサートやフェスティバルで演奏していて、その中には1976年のスミソニアン2百年記念祭も含まれている。またノースカロライナのSwannanoa Gathering、ウェストバージニアのオーガスタ伝統センター、ノヴァスコシアのボックスウッド(伝統的フルートの学校)でも教えていた。

 この6年間に”The Dangerous Reel”、”The Old Fireside Music”、“The Road From Ballinakill”、”Speed 78”の4枚のレコードを出している。一生をアイルランド伝統音楽の研究と演奏、教育にささげ、ヨーロッパ、アメリカの今日の多くのミュージシャンに影響を与えた。』

―マイク・ケイシー
(マイク・ケイシーはフルートとギターを演奏する。長年にわたり東ゴールウェイの音楽を研究し、近年はインディアナ大学の伝統音楽研究所で働いている。)

『私が始めてマイク・ラファティーに会ったのは、2001年夏、恒例のボックスウッド・フルートフェスティバルで、彼はそこの教授陣の1人だった。マイク・ケイシーはそれまでにも何度かマイク・ラファティーに会ったことはあったが、2人が深く知り合うようになったのは、やはりこの2001年のボックスウッドだった。ケイシーはラファティーのレッスンでアシスタントを務めていた。私は受講者で、1週間のコースの間、マイク&テレサ・ラファティーと共に多くの時間を過ごしたことは、大きな喜びだった。ラファティーとケイシーの2人の”マイク”の息はピッタリで、翌2002年7月にはSwannanoa Gathering(アメリカ、ノースカロライナ州アッシュビルのウォレン・ウィルソン大学が行うフォークアートのサマーワークショップ)のケルティック・ウィークで再び一緒に仕事をしている。私はこの機会にテネシーから車で駆けつけ、何曲か一緒に演奏し、マイク・ケイシーと共にこのインタビューを行った。

このインタビューは2002年7月7日にウォレン・ウィルソン大学のキャンパスで行われた。私はマイク・ケイシーと共に文字起こしをし、多少読みやすいように編集した。編集は主に全体を短くし、文章を短く区切ることだった。同じ話題が別のところに出てくる時など、順序を変えることもあった。

 編集済みの原稿はマイク・ラファティーに読んでもらって、幾つかの点で説明も頂いている。
このウェブサイトにインタビューを載せることを快諾していただいたブラッド・ハーレイ氏に感謝したい。

 また、マイク・ラファティー氏には、インタビューへのご協力、長時間に及ぶ文字起こしや編集に付き合っていただいたこと…そしてもちろん、私たちと音楽を分かち合ってくれたことに感謝の言葉もない。「偉大なラファティー」と知り合い、しばしばセッションする機会を得たことは、私とマイク・ケイシーにとって大きな特権であった。』

―ポール・ウェルズ
(ポール・ウェルズはフィドル、フルート奏者で民俗学者。元ミドルテネシー州立大学のポピュラーミュージックセンター所長。引退している。)

 

左からマイク・ケイシー、マイク・ラファティー、ポール・ウェルズ

出典 A Guide to the Irish Flute


CD、コンサート情報、ワークショップについては、マイク&メアリー・ラファティーのウェブサイトをチェックしてください。


インタビューについて
注:このインタビューは他のものに比べてかなり長いので、幾つかのセクションに分けている。

パート1:家族と故郷
マイクが幼い頃を過ごした東ゴールウェイの村と出会った音楽や音楽家について語っている。

パート2:演奏を学ぶ
マイクの初めてのフルート、どうやって学んだか、どこで演奏したか。

パート3:ゴールウェイからアメリカへ
ニューヨークへの移住、ニューヨークでの音楽の盛衰、アイリッシュ音楽とフルートへの情熱の再燃について語る。

パート4:東ゴールウェイの音楽
東ゴールウェイの音楽の特質、他の地域のスタイルとどう違うのかについて語る。


左枠:インタビュアー=マイク・ケイシー(M)とポール・ウェルズ(P)
右枠:マイク・ラファティー
 

東ゴールウェイの地図。マイク・ラファティーが生まれ育った場所は明るく表示されている。

出典 A Guide to the Irish Flute

パート1:家族と故郷

『家族』

子供時代をすごしたのは何という村ですか?(M)


Larragaです。これがその村で、郵便局はKylebrackにあって、KylebrackはLeitrimの教区とBallinakillの教区の境界線の辺りにありました。LoughreaからWoodfordへの道をたどるなら、Woodfordから5マイルほどのところで、そこからさらに1マイルいくと、そこがLarragaです。
家が1軒あって、幾つか農地を越えていくともう1家あって…小さな農地ですよ。それから、1軒、2軒、3軒、…、ええ、あの頃は7軒ありました。たったそれだけですが、大事なことは7軒すべてがラファティー家だったということです。みんなラファティーだったのです! もし誰かよその人が紛れ込んできたら…恐る恐る言ったものです。「皆さん御親戚か何か…?」 でももう何もありません。廃屋だけです。その廃屋も取り壊されてきています。次々と新しい家が建っていますから。
もう古い家は見つけることは出来ないでしょう。すっかり更地になってしまいました。

Ballinakillは教区なのですか?(P)

そうです。パブが2軒しかありませんでした。町はありませんでした。一時期は店(grocery store)が3軒ありました。あちらでは小さな店のことをgrocery storeというのです。紅茶とか砂糖とか売っていました。お店に入ってジャガイモを買う、なんてことはしません。
ジャガイモは自分で作るものでした。町では買うこともありましたけど。キャベツや他の野菜も出来れば自分で作りました。ミルクも、バターも。小さな農園ですけれど。バターは買わなければならないこともありました。それは自分の土地で牛を何頭飼えるかで決まってきました。

生まれたのは何年ですか?(P)

1926年です。

ご兄弟は?(P)

7人です。
私は4番目でした。兄が3人と妹が3人です。

お父様のご職業は?(P)

農夫でした。わずかな土地を耕していましたが、目が見えなくなって…白内障でした。あの頃は白内障も治せなかったのです。いわゆるquack doctor(民間療法)のところへ行って、それで治せると思ったのですがダメでした。父の視力がわずかに残っていた頃を覚えています。

それはつらかったでしょうね。(P)

ええ。私たちはみんなまだ幼かったですし。大変でした。母が畑の仕事をして、兄達も手伝いました。

『家庭での音楽』

子供の頃、家庭に音楽はありましたか?(M)

ええ、たっぷりありましたよ。みんな父のフルートを聴きにきました。Son Donnellyという名の男。聞いたことがあるでしょう。フルートの名人です。ホイッスルもうまいです。彼に並ぶものはいないと思います。指使いが素晴らしくて、彼のフルートの音色は抜群です。

お父様はフルートをやっていらっしゃった…(P)

ええ、父の名はトム。トーマスでした。どこで音楽を学んだかはわかりません。祖父が音楽をしたという話は伝わっていませんが、父のいとこはフィドルが上手でした。若い頃、お互いに刺激しあっていたのだと思います。それから、もう1人トム・ブロダリック Tom Broderickという男がいてフルートをやっていました。2人は寄付集めのイベントや家庭のダンスパーティーで演奏していて「2人のトム The Two Toms」として知られていました。父はフルートで大きな音を出すことができ、人々はまるで風のようだと思いました。その息で大きな樽を一杯にすることが出来ると言われたものです。それが「バレル(Barrel 樽)」というニックネームの由来です。

ミュージシャンたちがお父様の演奏を聞きにこられたのですね。(M)

いや、家に来てセッションしたのです。道を少し行ったところにフィドルを弾く人がいて、たぶん私より2、3歳年上の若い人でした。その人はよく来ていて、私と一緒に演奏したものでした。そういう時、父はあまり演奏しませんでした。でもそれ以前はみんなよく来たものでした。ジャック・ コーグランJack Coughtlanという人がよく家に来ました。みんな彼の音楽を聴きました。で、私が大きくなって、私達ふたりでホイッスルを吹きました。家でダンスパーティーがあって、音楽はホイッスル2本。みんな聞いてくれました。一緒になって結構うまく吹きましたよ。
一音一音まねしてね。それが出来ないとお目玉でした。まあ、「やさしく」ですが。

2本のホイッスルって、お父様とご自身ですか?(P)

ええ、そうです。
当時ギターはありませんでしたし、アコーディオンもありませんでした。

音楽を始めた時のことを覚えていますか?(M)

ええ、よく覚えています。おじのパッキー・モロニー Packie Moloney が家にいました。私はよく古いクラークのC管ホイッスルを噛んでいたのですが、おじは、「やめとけよ。ちゃんと吹けるように練習しよう。」と言ったのです。そして、少し吹いてくれました。それから”The Wearing of the Green” を少し吹きました。それが始まりでした。それからはホイッスルを噛むのもやめました。父がその後を引き継いで、手ほどきをしてくれました。8歳の頃です。

最初に吹いた曲の題名をもう一度お願いします。

"The Wearing of the Green"です。それからもう1つは"I Have a Bonnet Trimmed with Blue"でした。二つともマーチですね。次に覚えたのは"The Walls of Liscarroll" だったと思います。難しいジグでした。でも父が教えてくれた曲なのです。どれだけ時間がかかったか覚えていません。
一回に少しずつ教えてもらい、外に出て畑で練習しました。覚えたら戻ってきて次のところを教えてもらうのです。毎晩でした。父の気が向いたときだけですが。

このインタビューは「パート2:演奏を学ぶ」に続きます。