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ケルトの笛 インタビュー

ブライアン・フィネガン (Brian Finnegan)

※ このインタビューは、ホームページ「A Guide to the Irish Flute」より、著作権保有者のBrad Hurley氏の許可を得て日本語翻訳し、公開しています。英語翻訳:村上亮子
 
 

出典 A Guide to the Irish Flute

このインタビューは1999年7月28日、イギリス、ケンブリッジ州のバーウェル・ハウス Burwell Houseで、ブライアン・フィネガンが講師を務めている1週間のフルート&ホイッスルのコースの間に行われた。(毎年行われるこのイベントの案内はBurwell Bash参照)
インタビューアーはこのコースの受講者、レイチェル・マーシュ。
ブライアン・フィネガンは現在、フルック Flookというバンドで、フルートとホイッスルを吹いている。(インタビュー当時)

ほかのバンドメンバーは、サラ・アレンSarah Allen(アコーディオンとフルート)、エド・ボイドEd Boyd(ギター)、ジョン・ジョー・ケリーJohn Joe Kelly(バウロン)である。

作品:
“When the Party’s Over” 1993 ARAD CD 101 (Celtic Music Label)
Flook “Live” 1997 Small Time CD9405
Flook “The Four of Us” (アメリカのみで発売) 1999 Flatfish 001
Flook “Flatfish” 1999
Flook “Rubai” 2002

経歴

8歳のとき、エシーネとブライアンのバレリー夫妻 Eithne & Brian Vallely の指導で音楽を始めました。
二人は北アイルランドのアーマー州に住んでいたすばらしい音楽家で、「アーマー・パイパーズ・クラブ」という、もう30年も続いている音楽教室を運営していました。

ブライアンはパイプ奏者で、エシーネはフィドルでした。
二人はアーマーでスポーツクラブも経営していて、私の家族はそこでスポーツをしていたのですが、それによって音楽のクラスを知ることとなりました。
その当時アイルランドでは多くの協会(コールタス Comhaltas)があって、協会に属さずに、独立して活動する音楽講師はほとんどいませんでした。
その理由は協会が音楽祭に強大な影響力を持っていたからです。
ブライアン・バレリーはパディー・モロニー Paddy Molonyともに「ダブリン・パイパーズ・クラブ」を設立したメンバーのひとりで、その後、北部に移住し、エシーネと結婚し、「アーマー・パイパーズ・クラブ」を設立したのです。

話を戻しますが、私は8歳のときにそこへ行って、ホイッスルでレッスンをはじめ、10歳のときに、最初のフルートを手にし、それからです。
私はパイパーズ・クラブと一緒に演奏し、あちこちに出かけていきました。
そんな幼いころから、二人は私を世界中に連れて行ってくれました。
外国への旅行で本当に面白い体験をしましたし、楽しい時間をすごしました。

18歳になったとき、バンドを組もうと思いました。
学校でも演奏をしていました。
学校のグループが音楽祭の代表になり、かなり優秀なグループで、全国レベルの賞をいくつか取りました。
学校の代表が全国レベルの賞を取るというのは大きな意味があるのです。
それに参加してステージに上がるだけでも、バンドを組む立派な理由になりました。
そのバンドは"Gan Ainm(名無しの意)" という名前で、6ヶ月続き、それから名前を"Upstairs in a Tent"に変えました。
そのバンドからは、ジョン・マックシェリー John McSherry(のちLúnasaを立ち上げるイリアン・パイプス奏者)や エーモン・マクエルホルム Éamon McElholm(現Solasのギターリスト) などの優れた音楽家が生まれています。
そのバンドは3年間続き、残念なことに解散してしまいました。
私たちはCDを作っていません。
メンバーの一人が看護師で、時間が取れなかったのです。

私は休暇をとって、ハンガリーへ1年間教えに行きました。
今までとは違ったことをしたかったのです。
そして私がハンガリーにいた時に、共通の友達であるベッキー・モリス Becky Morrisを通じ、サラ・アレン Sarah Allenとマイク・マックゴールドリック Mike McGoldrickでFlookが結成されました。
フルート奏者が3人のバンドです。
それは"Three Nations Flute"とも呼ばれ、1回限りの企画として始まりました。
実際「3カ国(three nations)」はまったく関係なかったのですが。(報道陣にどう説明するか悩んだものです)。
数週間一緒にやって、私たちはギタリストが必要だということで意見が一致し、エド・ボイドを引き入れました。
今では3年以上この形でやっていて、うまくいっています。

インタビュー

左枠:レイチェルさん(インタビュアー) 右枠:ブライアン・フィネガンさん

一番大きな影響を受けたフルート奏者はどなたですか?

フルートを始めた頃に、両親が初めて買ってくれたアルバムは、マット・モロイのファーストアルバムだったと思います。
アーマーにはあまりセッションとか、音楽の集まりとかなかったので、私や主に家で吹き、マット・モロイのアルバムが先生でした。
私はマット・モロイがやっていることをすべて学び取りました。
これが私のフルートの基礎になっています。
私は彼の大ファンでした。
それから、14歳か15歳のころ、父がジャン-ミッシェル-ヴェイヨン Jean-Michel Veillonに会いに連れて行ってくれました。
彼はその頃、まだ、かなり若くて、アーマーにコンサートに来ていました。
よく覚えています。
私は観客の中に座っていました。
彼は緑色の大きな布製のカバンから、たくさんのフルートを取り出して、全部一緒にしてしまって、どれとどれが一緒になるのかわからなくなってしまって、あたふたしていました。
それから、立ち上がってステージに上り、今までに聞いたことのない美しい音楽を奏で始めました。
ブレトンの音楽でした。
それは目の覚めるような体験でした。
それまでは、世界中にフルート奏者はマット・モロイしかいないと思っていたのですから。

ですから、最も大きな影響を受けたのは、マット・モロイとジャン-ミッシェル-ヴェイヨンだと思います。
でも、結局、ジャン-ミッシェルは輝く星でした。
彼は確かにすばらしいフルート奏者でしたが、ほかにも星はたくさんあります。
インドのフルート音楽をたくさん聞きました。
ハリプラサド・チョウラシアHariprasad Chaurasia とかディーパク・ラム Deepak Ram とかラジェンドラ・プラサンナ Rajendra Prasanna といった人々です。

あなたの演奏は、たとえばタンギングを多用するなどして、「伝統的ではない」と言われますね。
ご自身では、自分のことを伝統的だと思いますか。
それとも、伝統を打ち破っていると感じておられますか?

伝統というのは、自分の人生を形作って来た出来事や物事だと思います。
そして「私の」人生を作ってきたものが、私をこの演奏スタイルに導いたのです。
もしそれがタンギングを使うスタイルなら、それが自分の伝統なのだと思います。
多くの人が「なぜ、そんなに速く演奏するのですか?」と聞きますが、私がまだ若かった頃、アーマーの年配の人たちは皆、言ってみれば、時速100マイルで吹いていました。
私が始めたのではないのです。
タンギングについて言えば、ショ-ン・ライアンSean Ryanはホイッスルでタンギングを使った代表的な人で、私はショーン・ライアンもよく聞きました。
南アフリカのフルートやホイッスル奏者、それからジャズフルートの演奏もよく聞きました。
結局、私は二人の賢明な音楽家、アーマーのバレリー夫妻から、アイリッシュ伝統音楽を学んできたのです。
いずれにしろ、伝統として入ってきたものは、伝統として出て行くのです。

マット・モロイもタンギングをよく使いますね。

そうです。
ケビン・クロフォードKevin Crawfordもタンギングを使うし、ナイル・キーガンNiall Keeganもそうです。
ひとつの表現方法だと思います。
舌も体の一部なのだから、使えばいいのです。

どうしてトリプルタンギングを始めたのですか?

パトリック・オーウェルPatrick Olwellのフルートを手に入れて、それから、トリプルタンギングを取り入れたのです。
それまではサム・マリーSam Murrayのフルートを吹いていて、とてもいいフルートなのですが、音がちょっと、やわらかいのです。
ある晩セッションでエニスへ行って、そこでパトリックに会いました。
パトリックはアメリカから来たばかりで、竹のフルートをいっぱい詰めたカバンを持ってきていました。
私は彼の隣に座って、1つ吹かせてもらいましたが、何というか…それに口をつけるとすぐに見えてきました。
そして、「おお、すごい」と思いました。
竹のフルートを吹くのは初めてのことで、それが、あのセッションだったのです。
フルートが自分で歌いだすのです。
まるでフルートが生きているようでした。
これこそ自分がほしかった音だと思いました。
アフリカン・ブラックウッドのフルートと比べれば、それほど豊かでも、素朴でも、よい音質でもありません。
でも、ほかのフルートではできなかったことですが、自分を自由に表現することができるのです。
ダブルストッピングやすばやいロールもできました。
そのセッションが終わったときに、パトリックはそのフルートをプレゼントしてくれました。
私はそれを頂いて、6ヶ月か7ヶ月、そればかり吹いてすごしました。
トリプルタンギングはそのフルートとともに、発展してきたのです。
オーウェルのフルートとトリプルタンギングはセットのようなものです。
でも、どこから生まれてきたのかはわかりません。
もしかしたら過ぎ去った時間の影響かもしれません。
よく考えていませんでしたが。

いつごろのことですか?

1994年か95年の頃です。
それ以前はまったく違ったスタイルで演奏していたのです。
北部のスタイルとマット・モロイを合わせたような…北部の曲をたくさんやっていましたが、むしろ曲のリズムと結びついたマット・モロイの息のコントロールの流れるような奏法で…。
北部のフルート奏者の多くは、息をパーカッションのように使います。
私の奏法はもっと丸みのあるものでした。
でもトリプルタンギングは使っていませんでした。
派手なものではありません。

ジャズの影響はどこから来ていますか?

これもいい質問ですね。
よくわからないのです。
私はベルファストで長い時間を過ごし、あそこには強烈な文化と混成した音楽がありました。
若い頃は、ローランド・カークRoland Kirkをよく聞きました。
だから、ジャズの影響は、様々なところから来ているのだと思います。
ジャズがどんなものか、わかっているという自信はありません。
即効演奏はその曲をちゃんと知っていて、遊んでみようと思うところから来ていると思います。
私はジャズを学んだことはないし、ジャズの理論も知りません。
ただ曲をちょっと置いて、離れてみるのですが、離れすぎたりはしないのです。
最近誰かが言っていたのですが、伝統的な曲の中にジャズのブレイクbreakを入れることは、その曲から離れすぎてしまいます。
ジャズのソロはもとのメロディからぶっとんで行ってしまいますが、私はやりすぎないように即興演奏をします。
その曲のルーツ、その曲がどこから来たのか、はしっかり意識しています。
それが伝統というものなのでしょうか。

Flookのステージでしている変奏はすばらしいですね。
そのような変奏をしてみたいと思う人に何かアドバイスはありますか?

いいギタリストと、いいバウロン奏者を入れること。
それからもうひとり、いいフルート奏者かメロディー奏者を入れること。
そうすれば変奏をしても大丈夫です。
ステージでもセッションでも、あなたが信頼できるミュージシャン、あなたの一息一息にちゃんとついて来てくれる人達と一緒なら、あなたがつまずいた時、きちんと収拾してくれて、何も損なわれることがありません。
曲そのものはダメにならないのです。
Flookでは恵まれていました。
世界でも最高のバウロン奏者がいて、岩のように、がっちりと支えてくれるのです。
何が起こっても、どんな大きなミスを犯しても…

ミスすることがあるのですか?

もちろん。
しょっちゅうミスっています。
でも、私はジョン・ジョーとエドを見ています。
二人は曲のムードの変化をきちんと把握していて、私がミスすると、彼らは観客の注意を私から自分たちのほうに引き付けるのです。
そうやっていつもうまくやってくれるのです。
何かミスがあると、彼らは息を合わせてとっさにシンコペーション(リズムの強拍をずらすこと)をやり、人々の注意を引き付け、私は平静を取り戻す時間を得るのです。
サラも大切です。
彼女はいつもバスで低音を支えてくれています。

最近はうまくいっています。
マイク・マックゴールドリックがバンドにいた頃、彼はすばらしい即興演奏者で、頭の回転の速い男でした。
演奏しているとき、彼はどの場所でも、どんな時でも、もとの曲から離れて、即興演奏することができました。
彼はいつも私にけし掛けてきました。
二人の間には、このエネルギー、テレパシーみたいなものが流れていて、いつもお互いに反応しあっていました。
聴衆はそれについて進み、サラとエドが後ろに取り残されてしまうみたいでした。
マイクがいなくなって、ジョン・ジョー・ケリーが加わって、私はずっとリラックスしています。
こんな風に誰かと繋がっていなければならないと感じないですむからです。
今ではサラやジョン・ジョーやエドがしていることを聞けるから、とてもうれしいです。
本当にいいことです。
この3人の人たちをずっと求めていたのです。
いつも、彼らは100%私をプッシュしてくれます。

エドやサラやジョン・ジョーがいなくて、家でひとりで練習するときはどうですか。

私が変奏するやり方は、マット・モロイやアルタンなどの伝統音楽のアルバムを出して、一緒に演奏してみるというものでした。
曲を覚えて、CDと一緒に吹けるようになったら、音量を大きくして、バンドにフルートが2人いるように吹いたのです。
CDにはないハーモニーのようなことをやって、それがうまくいくと少し変奏してみようとしました。
変奏とかハーモニーで大切なことは、上達するためには馬鹿な真似をしてみなければならないということです。
あなたが自分の限界の中だけで演奏していたら、それだけのことです。
でも、何かやってみて、「これはダメだ。馬鹿げている」と思ったとして、実際うまくいかなかったとしても、100回挑戦したら、いつかはうまくいくのができるのです。
1回か2回やって諦めたら、もうそれでおしまいです。
私は、成功するまで何回でも何回でも馬鹿げたことを繰り返しました。

私は車の中でテープにあわせて歌うのですが、時には変奏のように歌います。
たぶんそんな風に始めるのですか?

その通りです。
私も演奏していないときはよく歌っていました。
私が外を歩いていて、静かなところなら、ハミングで歌ったり、口ずさんだりして、突然音符が形を成し、キーが決まり、私は声を出して変奏を始めていたのです。

もうひとつヒントは、落ち着いて変奏を考える環境、誰にも邪魔されない環境を作ることです。
家ではできますね。
でも、もしセッションやギグをしているのなら、あなたはこの環境を作らなければなりません。
時には創造的なことをするチャンスを得られないこともあります。
それをしていい場所かどうか考えなければなりません。
変奏に積極的なミュージシャンと一緒にいるというのも重要なことです。

ほかにあなたに刺激を与えているものは何かありますか。
今、あなたを奮い立たせているものは何でしょうか?

このバーウェル・ハウスBurwell House(注:このワークショップが行われている会場)です。
皆さんのような人たちに会って、教えることです。
普段あまり教えるチャンスはありません。
毎年ワークショップを2つしていて、このバーウェル・ハウスとダラム・フォークワークスDurham Folkworksのサマースクールです。
今年は成人向きのコースをしていますが、これがいいのです。
基礎に戻って、ゆっくりと吹くチャンスを与えてくれます。
疲れますが、素晴らしい体験です。
13人の方々とひとつ部屋の中に座って、その方々が何をなさっている方かも知らず、そんなことなどどうでもいいのです。
年に数回だけ練習に来られる方と一緒にいる。
そしてその人たちは5日間の体験からできるだけのことを学んでいこうとしている。
フォークワークスのサマースクールで、はじめて教えたときのことを覚えています。
私が到着したとき、疲れきっていて、実は教えたくありませんでした。
気持ちも体も万全ではなかったのです。
ロス・リグビーがタクシーまで来てくれて、「このハリーって子に会ってくれ。君のワークショップを受けるために、去年1年間ずっと新聞配達していたのだって。」と言ったのです。
人々が私から学びたいと言って来てくれるのは、気持ちを奮い立たせてくれるものです。
私は本もあまり読んでいないし、学校の成績もよくありませんでした。
だから、ほか方法で何かを伝えていけるのはとてもうれしいものです。


フルート奏者では、3月にインドのツアーをし、それが音楽的には最近で一番大きな意味がありました。
多くの優れた音楽家に会い、賢明な方にも会い、それまで何も知らなかった伝統について少し知ることができました。

それがFlookでやっていることにつながって来ると思いますか?

ええ、すでに影響は出ているし、これからも大きな影響が続くと思います。
たぶん私たちが選ぶ音楽ではなくて、私の演奏にその影響は出てきます。
私が話すことにも出てくるでしょう。

ほかの文化はどうですか?ハンガリーは衝撃的だったと思います。

ハンガリーは魅力的でした。
私のキャリアと人生の転換点になったのです。
あの頃、自分が何をやりたいかわからなくなっていました。
ひとつのバンドから離れ、いろいろなことに幻滅していました。
音楽をすることに情熱は持っていましたが、どうしたら、自分がやりたいと思う方法で、自分の音楽を伝えることができるのか、わからなくなっていたのです。
それでハンガリーへ行って、おもしろいものですね、本当にやりたいと思っていることには背を向けることはできないのです。
すぐにハンガリーのダンスホールに出入りして、民族音楽を聞いたり、ダンスを習ったりしました。
それからある晩、学校から帰って来るとき(私はユダヤ人の中等学校で英語を教えていました。)、文字通りアパートからひとつ角を曲がったところで、シューグルニフティーShooglenifty(注:スコットランドのバンド)が次の晩に小さなホールでコンサートをするというポスターを見たのです。
そして次の日学校へ戻って、子供たちを皆集めました。
「伝統音楽?僕たちクラブで踊りたいよ!」って言っていました。
私は「いや。おいで、一緒に聞くんだよ」と言ったのです。
そして、次の日、Shoogleniftyを聞いた後、私は学校で英雄になっていました。
忘れもしません。
私はコンサートの後まっすぐ家に帰って、フルートを取り出して、近所の人の睡眠の邪魔をして、そして、演奏活動に戻ったのです。
Andras Monoriというすばらしいカヴァル奏者と一緒によく演奏しました。
驚くべき男で、すばらしい音楽家で、フォークワークス・フルートピアFolkworks Flutopiaのツアーを一緒にしました。
彼は多くのジャズやフォークフュージョンを演奏しました。
ティン・ティン・カルテットというすばらしいバンドで演奏していました。
そのバンドにはすばらしいタブラの奏者がいて、強烈なインドの影響を受けていました。
私はハンガリー協会のために、収集もしました。
私たちは村々に出かけていって、伝統曲を集めました。
それで多くの年を取ったカヴァル奏者に出会いました。

実際あり得ないほどラッキーでした。
こんなすばらしい人々に会いにいける職業はほかにはありません。
その国の生(ナマ)の人々に会いに行くのです。
音楽が、言ってみればこれらの人々の生活にあなたを誘うのです。
かれらは学者ではないし、天才でもない。
あなたや私と同じ普通の人です。
それが音楽のすばらしいところです。
美術もそうだし、詩もそうなのです。